シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第 2 節 「継体王朝」

「継体天皇は新王朝ではない」南原次男著より。著者は大正7年生(鹿児島)陸士卒、戦後会社経営/早稲田聴講生として古代史を専攻

1. 若野毛二俣王の母や妃の息長氏との関係

若野毛二俣王と子の大郎子(おおのいらつこ)[意富々O(木偏に予)王とも書く/おおほど]には滋賀県北部の坂田とのつながりがあった。

二俣王と妃(妃は近江坂田地方出身が明らか)およびその娘、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)や琴節郎女[(ことふしのいらつめ、弟姫(おとひめ)あるいは衣通郎女(そとおしのいらつめ)とも、允恭の寵妃]は、近江坂田に住んでいた。王も別荘を坂田に持ち一時期、滞在した。伝承では、王の墓は長浜古墳のひとつである垣籠(かりごめ)古墳といわれている。

二俣王の皇子、大郎子(おおのいらつこ)は古事記では、北近江の坂田、息長坂君、酒人、越前の三国などの豪族の祖先と言われている。男大ど(跡の足偏の代わりに之繞)王は、太郎子の子孫の人々の娘を妃とし、近江を中心に尾張・信越などと広く水運を活用した交易に従事しており、資産も多く経済力の大きな豪族であったとみられる。

二俣王が北近江に居を構えたのは、応神の地方統治のためと思える。母、息長真若中比売の実家で王も幼少期を過ごし、北近江は王の郷里のようなものだったのでは。王の母の妹、百師木伊呂弁[(ももしきいろべ・・王の妃)、弟日売真若比売(おとひめまわかひめ)とも]も坂田に住んでいたことが、娘の衣通郎女(允恭の妃)が「母に随いて坂田に住んでいた」と述べたと書紀にあることから判る。

二俣王の弟姫との婚姻は叔母と甥の結婚。王の母、息長真若中比売(おきなが まわか なかつひめ)と弟姫は同母姉妹。古事記の記載の誤りかも。

2. 大中姫(おおなかつひめ)など息長一族

大中姫は強烈な性格で、天皇即位を嫌がる允恭を、真冬に座り込みを続けて応じさせた。妹の衣通郎女は絶世の美女で衣を通して体の艶が見えると言われた。皇后の大中姫が、妹を天皇に差し上げると本心ではなく言ったのをとらえ、天皇は幾度も宮中に召し上げようとしたが、妹は姉の手前、なかなか応じず。ついに使者が命を果たせないので死ぬと脅したのでやむなく応じた。その後、允恭と衣通郎女は大変な相思相愛の仲になった。姉皇后は嫉妬心を強め、妹は王宮に住めず河内に宮を構えた。

皇后の大中姫は強い性格で允恭の治下42年間にわたり国政に君臨した。允恭は両姉妹に広大な土地を与えた。刑部(おさかべ、忍坂部とも)、藤原部などの名代(なしろ)。実家の兄、大郎子(おおのいらつこ)およびその子、乎非王(おひおう・・余り記録が無い)が中央に知られた豪族であったことは疑いない。

乎非王の子が近江高島の三尾に別荘(別所)を構えた彦主人王(ひこうしおう)、その子が男大ど王(継体)。近江の三尾氏には越前に同族の本家があり、垂仁の子とされる石衝別命(いわつくわけのみこと)を祖とする。同族には能登の羽咋氏、加賀の加我氏がある。伝承によれば、垂仁の子孫を西近江、越前、加賀、能登に配することにより、大和朝の日本海岸支配を確かなものしようとしたといわれる。安曇川南北の山麓に田中王塚古墳群と熊野本古墳群があり、5c中葉から6cのものとされる。全長53mの地方豪族の墓地もある。三尾氏は男大ど王の最側近だったが壬申の乱で近江朝に味方し、大海人に味方した湖東の豪族に攻められ三尾城で滅びたとみられる。

3. 古墳から見た息長氏

関ヶ原トンネルの前に蓋をするように横たわっている丘陵を横山(臥竜山)という。要害の地で壬申の乱以来、天下分け目の戦闘がこの周辺で繰り返されてきた。古代の大豪族、息長・坂田両氏はじめ、坂田酒人氏らの祖先で坂田郡を支配した氏族の墳墓の地。加えて若野毛二俣王と妃、ならびに敏達の皇后広姫の息長御陵等の諸伝承のある一大古墳群地帯。

臥龍山北端の茶臼山(姉川合戦時の信長陣跡)に茶臼山古墳があり、最も古く4c後半か5c初頭のものとされる。その南の小茶臼山古墳、少し東の頂上の竜ヶ鼻古墳も古いとされている。茶臼山の南に垣籠(かいごめ)古墳があり築造は5c初頭とされ、若野毛二俣王の陵と伝承されている。この陵の東役100mにオキサキ山古墳があり、二俣王妃の陵と称されている。垣籠古墳の東1kmの横山の東斜面(山東町村居田)に息長御陵と称される古墳がある。敏達の皇后息長真手王の娘、広姫の陵とされているが不詳。広姫は、舒明天皇の祖母で、天智・天武にとっては、母系が蘇我氏出の用明・崇峻・推古から、息長系に皇統が移った分かれ目となる重要な曾祖母である。

結論としては、継体はれっきとした皇統に属する人物で、新王朝が出来たのではない。大和に入るのに20年余を要したことから内乱説があるが、これは当っていない。

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以下は、「古代史の窓」森浩一著(同志社大名誉教授、1928年生まれ)「考古学と古代日本」、「古墳の発掘」、「日本神話と考古学」、「巨大古墳の世紀」、「倭人伝の世界」などより

4. 継体王朝の性格

「大和に天皇家の血筋が絶えたので、わずかでも血統を伝えるオホド王を越から迎えた」とする人が多い。しかしこの時代の大王は一夫多妻で、しかも一人の皇后や妃に数人の子供がいるのが普通だったから、三代もたつと血統を伝える人は大和や河内に何百人もいたはずである。したがって天皇の血筋が絶えたということはありえないことで、やがて没落する(中国)南朝一辺倒ではなく、新興の東北アジアの勢力にも目配りのできる、つまり新しい国際感覚に耐えうる大王が大和にはいなかった、という意味にとらえている。

5. 日本海地域の先進性

当時、日本海地域には、遠隔地からもたらされる新しい知識や文物が次々に入ってくるばかりか、それを受け入れる港(潟を利用した港が多い)を核にした勢力が各地に存在していた。越の国の範囲は、出羽国誕生以前をとれば、西は福井県の東部から東は秋田県や山形県におよぶ。古代の地域の中ではずば抜けた広さだった。近畿入り以前の継体大王の勢力の中心は、近江の一部(湖西・高島)と九頭竜川流域であったと推定される。

九頭竜川流域は、その河口に三国潟(仮称)があって、高向宮は今日の河口から18kmほど上流にあったと推定される。この地形は、継体が近畿入りして最初に都を置いた樟葉宮、二度目の都:筒城宮、三度目の宮:弟国宮など、淀川水系の宮の位地とたいへん共通している。

九頭竜川流域には、丸岡町と松岡町にまたがって前方後円墳群がある。近江高島郡の古墳よりも規模が大きく何世代にもわたって築かれている。古墳で見る限り、母系のほうが勢力が強大だったといえる。

代々の支配者の墓は前方後円墳を採用、5c後半から6c初頭にかけてのものと推定される二本松山古墳では、朝鮮半島南部(伽耶)風の正装の用具である金メッキと銀メッキの二つの冠を副葬している。いうまでも無く冠は後期古墳の代表的な副葬品で、支配者層の新しい正装と推定されるが、奈良県では6c後半の藤ノ木古墳の冠がもっとも古いものである。そのことから見ても日本海地域、(この場合は越)の先進性がうかがえると思う。

九頭竜川流域や越前の古墳には、大和には見られない舟形石棺がしばしば採用されている。これらは地元の石を使っているが、形は中部九州で流行する舟形石棺と相互影響を受けたと見られる。このことから考えると、本来、越の勢力と中部九州の勢力との間に、長期間にわたって交流があったと推定される。大和勢力と混合した継体大王に九州のイワイがたてついたのも、同格のものが上に立たれることへの反発と解すれば良くわかる。


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