「聖徳太子と鉄の王朝」上垣外(かみがいと)憲一著ほかより。著者は東大教養 国際日本文化センター助教授 比較文化、日韓文化交流史専門 1948年生
(1)近江出身の継体天皇
5c末から6c初、大きな政治変動がみられた。系図上、大和王家とは血縁関係が最も薄いと思われる継体が、近江から大和に入り、武烈天皇の死で男子後継者の絶えた王家を継いだと記・紀は記す。内政面では、飛鳥前史の最大の事件である「蘇我・物部戦争」の舞台を、継体から欽明の時期が準備しつつあった。外政面では、562年に伽耶が新羅に滅ぼされ、徐々に強大化する新羅にどう対応をするかで継体や各氏族は立場を問われた。
継体who? 日本書紀の記述
「男大跡(足偏に代えて之繞)天皇(をほどのすめらみこと、継体のこと)は誉田(ほむだ)天皇の五世の孫、彦主人王(ひこうしのおほきみ)の子なり。母を振姫(ふるひめ)と曰す。振姫は活目(いくめ)天皇の七世の孫なり。天皇の父、振姫が顔容妹妙(きらぎら)しくして甚だうるはしき(女偏に微の造り)色有りといふことを聞きて、近江国の高島郡の三尾(みを)の別業より使いを遣わして、(越前)三国の坂中井(さかなゐ)に聘へて納れて妃としたまふ。」
(2)継体と製鉄
高島の豪族の出とはいえ継体が天皇になれるほどの力を持てたのは、この地域が古代における最も有力な製鉄地帯だったことを物語るのではないか。近畿地方において確認されている最古の製鉄遺跡は、継体よりも後の八世紀の同じく高島郡マキノの製鉄遺跡群である。森浩一著「稲と鉄の渡来をめぐって」において森氏は、継体の頃の製鉄遺跡は未だ見つかっていないにしても、農業生産としては取るに足らない山間部の製鉄遺跡地帯に6,7世紀の大群集墳が発見されている以上、継体の経済的基盤として製鉄を考えざるを得ないとしている。
近畿地方における製鉄は6世紀に始まったと森氏は考えている。「続日本紀」には八世紀のこととして鉄鉱山が近江に存在したことを示す記述がいくつかある。
6世紀、幼くして父を失った継体は母の地、越前三国で育てられたとされる。越前と近江を結びつけたのも製鉄ではないか。振姫の「ふり」は、石上(いそのかみ)神宮の神体、布留の剣の「ふる」と音が同じ。韓国語の「火(プル)」とも通じ火は製鉄と関連する。継体の母の出身氏族も製鉄に関わっていた可能性がある。
村上英之介によれば、日本の古代製鉄には北部九州を窓口とした西日本の「砂鉄精錬」と、北陸地方を起点として東日本中心におこなわれた「鉄鉱石精錬」の二つの系統があるという。近畿地方では、5世紀代に砂鉄精錬がまず入り、少し遅れて北陸から鉄鉱石精錬法が入り混在・並立していたとされる。
継体の出現は、新旧の製鉄法の交代時期と関係するのではないか。高島郡の代表的古墳は鴨稲荷山古墳。副葬品として冠、沓、垂飾付耳飾が出土した。この風習が見られるのは日本では熊本県の江田船山古墳だけ。あとは新羅で十数例が見られるので新羅との関係が暗示される。
新羅との関係では、近江は新羅の王子 天日槍(あめのひぼこ)が一時住んだ地との伝説がある。坂田郡を根拠とする息長(おきなが)氏の出身である神宮皇后は天日槍の子孫と伝えられるなど新羅との関係は深い。
鴨稲荷山古墳付近には式内「志呂志(しろし)」神社があり、また琵琶湖畔には白鬚神社もある。白鬚神社の白は新羅に通じる。祭神のスサノオノミコトは書紀では新羅に天下ったとある。新羅の古名は斯櫨(木偏をとる)国である。
熊本の江田船山古墳と鴨稲荷山古墳だけが、新羅のものと一致する副葬品を持つことは見逃せない。前者出土の鉄刀には銘が「作刀者伊太o」(一字不明)。製鉄神として祀られているイタテ神、書紀にみえるイタケル神と関連する銘といえる。書紀ではこの神は父のスサノオノミコトと共に新羅に天下ったとされている。
出雲地方ではこのイタケル神は常に韓国という言葉を付されて「延喜式」の神名帳に記載されている渡来神である。「日本古代祭祀と鉄」の著者、真弓常忠氏によれば、このイタテ神は新来の製鉄技術を携えた人々が祀る製鉄神だったとされる。真弓氏はそれ以前の製鉄を倭(やまと)鍛冶、新来技術を韓(から)鍛冶と区別している。
高島郡にはこの倭鍛冶に当るものが存在していたように思われる。鴨稲荷山と言う名からもこの地は加茂族の居住地だったようだ。鴨川という川も流れている。この加茂族も真弓氏によれば製鉄を業としたのであり、しかも古い倭鍛冶だったという。鴨川は砂鉄を産したのであろう。
産鉄地帯である近江の高島では五世紀、加茂族による砂鉄からの製鉄がおこなわれていたが、継体の父、彦主人王によって北陸から新しい製鉄技術が導入され、質・量両面での飛躍があり、経済力、武器生産能力を背景に継体の大王位就任が実現したものと考えられる。
・継体の皇后は、大和王家の血筋の仁賢天皇皇女。即位を前提にした婚姻(継体57歳のこと)とみられる。
・他の妃・・目子(めのこ)媛、書紀には「元の媛(もともとの正妻)」は尾張連(むらじ)の娘。尾張連は製鉄の神と考えられる火明命(ほのあかりのみこと)を祖とするといわれる。
・稚子(わかこ)媛・・三尾角折君(つのおりのきみ)の妹。三尾は高島の豪族で製鉄氏族。
・広媛・・父は坂田大跨王(おおまたのおおきみ)で伊吹山の鉄を利用する製鉄氏族で坂田を本貫とする息長(おきなが、ふいごを吹く息が長い)氏の出身。上出のとおり、近江の二つの鉄鉱山(「鉄穴」)として高島と坂田が続日本紀に記されている。
・麻績娘子(おみのいらつめ)・・製鉄氏族の息長氏出身
継体と大和王家出身の手白香皇女の間に生まれた欽明天皇の宮の置かれた場所は、製鉄王朝としての継体王朝の性格を端的に示している。。書紀は欽明の宮が「磯城嶋金刺宮(しきしまのかねさしのみや)」であるとしている。金刺も製鉄を暗示する。宮の所在地は現在の桜井市金屋付近らしく、これは製鉄遺跡である金屋遺跡に一致する。欽明は父から受け継いだ近江、尾張、北陸などの製鉄地帯に加え、母の手白香から大和三輪山の鉄資源を継承しそこに宮を置いたと考えられる。
鉄は古代の重要な輸入品。5cを通じ朝鮮南部から入手。「魏志」韓伝の弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(獣偏に歳)、倭、皆従ひて之を取る」とある。
弁辰の中でも鉄生産の中心地は、大伽耶と呼ばれた(今の慶尚北道高霊)。562年に新羅は大伽耶国を併合。新羅が洛東江の伽耶に進出しはじめた6c前半以降、日本への鉄の供給が不安定になり、倭は国内での製鉄を迫られた。継体は鉄国産化という時代の要請を担って登場したといえよう。5c当時、製鉄は日本でもおこなわれていたが、武器用の高品質の鉄は輸入に頼っていたとみられ、この国産化・安定供給を、継体を支えていた渡来人技術集団が成し遂げたということであろう。
5c末の雄略天皇の頃、半島への派兵がしきりに試みられたと書紀は記すが、継体以降はこの必要が次第に無くなり、推古と聖徳太子の頃は鉄の国産化も達成されたので、半島との外交関係も平和的に進んだ。軍事氏族である物部氏はこれに抵抗し新羅への接近を試みた。
継体21年(527)、任那救援の派兵の折、筑紫国造(くにのみやつこ)磐井が反乱。反乱は物部のアラカ火(アラカは鹿の上にク)により鎮圧された。六万とされる軍勢を率いて任那に渡ることが出来た近江臣毛野(けぬ)は軍事、軍政に失敗を重ね、伽耶を新羅に追いやってしまう。毛野は継体の側近あるいは親しい親戚に当るのではないか。毛野を起用した継体は当然責任を問われたであろう。
書紀に引用された百済本紀によれば、継体26年に天皇と二人の皇子(安閑、宣化天皇)が共に死んだという。これは政変を暗示している。安閑と宣化は尾張出身の妃である目子姫を母とし、欽明は大和王家の手白香皇女を母としており、皇位継承をめぐって両系統の間で争いが生じたのであろう。物部はその後、百済聖明王は信用できないとして、鉄確保のため新羅に対し接近工作を始め、この隙を縫って蘇我氏が百済への接近を始める。
書紀には雄略のころとして次のような記述がみられる。
「新羅は日本を恐れ誼を高句麗に通じようとしたが、高句麗が新羅を滅ぼそうとしているのを知って国内の高句麗人を皆殺しにした。高句麗軍が報復にやってきたとき、新羅王は任那に助けを求めた。任那王は膳臣斑鳩らを救援に派遣した。高句麗軍は敗退。」
膳臣は若狭の豪族。後の欽明朝にも名がみえるが、その時期は膳臣はすべて高句麗との関係で出てくる。膳臣の首長の墓といわれる古墳は小浜から今津に抜ける道筋にある。継体の関係者の墓からも新羅に結びつく副葬品が出土しているので、このあたりは当時は新羅と関係があったと見てよいだろう。
膳臣は日本海を通じて新羅、高句麗と常に接触があったであろう。大和政権には高句麗の専門家がおらず、膳臣が一手に引き受けていた可能性が高い。欽明31年、高句麗の使節が越の国に着いたとき、欽明は膳臣の傾子(かたぶこ)を派遣、応接せしめたと書紀に記されている。
欽明6年(545)に膳臣巴提便(はすび)が百済に遣わされたとある。高句麗で王位継承をめぐって混乱が生じ、高句麗を攻める好機と百済が本心で考えているかどうか探りに行ったとの推測が成り立つ。日本としてはその機に高句麗の爾林城を攻め鉄確保を万全にしたいとの下心があったとみられる。
継体の後、皇位は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古とつづく。
書紀によれば欽明31年(570)、使節が越の国に到着。今の福井ないし石川の海岸に到着。最初の通報者は江ぬ(三水に亨)の臣となっているので加賀大聖寺あたりと見られる。当時高句麗は新羅と死闘を繰り返しており、半島南部からは出港できなかったから元山あたりから出発し、あえて危険の高い日本海横断を試みたものだろう。敦賀から近江に入り琵琶湖を南下、宇治から相楽(さがらか)の客館に案内され応接された。
敏達が没したあと用明の即位は順調には行かなかった。欽明の皇子で間人皇后と同じく小姉君を母とする穴穂部皇子が、敏達のもがりの庭で警護の三輪君逆(みわのきみさかう)に「どうして死んだ王に仕えて、生きた王である私に仕えないのか」と難詰したという。王位につく候補者は何人もいるのに皇子のこの自信の源泉は一体何であったのか。後に物部守屋が彼を天皇に推すが、このように重要視された穴穂部皇子はその名に秘密を解く鍵があるのではないか。
書紀によれば、矢のヤジリを表す言葉には二種類あり、ひとつは「軽」で銅を意味し、もうひとつは「穴穂」でこれは鉄を表すという。「穴穂」はまた物部氏とも結びつく。すなわち安康天皇は和風の名を穴穂天皇といいその即位には物部大前が助力したことが知られているし、安康は石上(いそのかみ)に宮を置いたが石上は物部氏の本拠地であった。
6c末の脈絡では、大津の穴穂に渡来人系と推定される群集墳墓が突出して多数確認されており、これも関係があるとみられる。この地域の神社で際立って格の高いのが坂本の日吉大社(古くは日枝神社)である。祭神は大山くい(口偏に作の造り)命であり山の神。古事記には鳴り鏑(かぶら)を持つ神者なりとあり、武器と関連があることを暗示。日吉大社の伝承を載せた鎌倉時代の「よう(曜の偏が火)天記」によれば大山くい命は鳴鏑の神であり、加茂社下宮の鴨玉依姫命(たまよりひめのみこと)の夫にあたるという。加茂神は製鉄の神であり、したがって大山くい命もまた製鉄神としての性格を持つということになる。
日吉大社の神体山は牛尾山。山頂付近に金巨岩といわれる巨岩があり、ここが祭祀場に使われた。この山は製鉄に関連があった。日枝神社の境内には6c後半の群集墳墓が多く見られ、マキノ町に見られる同時期の群集墳墓と同様、山の中腹に密集しているという特徴がある。こうしたことから、この地域が6c後半には重要な製鉄産業地帯であったことが推定できる。もともとこの地域に在来の製鉄技術があったところへ、渡来人の技術がもたらされたであろうことは、大山くい命が加茂神と近い関係にあったことからも推定できる。
穴穂という地名の由来は成務天皇の高穴穂宮がこの付近に置かれたという伝承に遡る。穴太集落にある高穴穂神社がその跡であるとの伝承である。後世、石垣積みで知られる穴太衆は、もともと鉱山の石切の技術を継承発達させた集団ということであろう。
穴太の古墳群は、群を抜いて数が多く総数334基を数え、ほかには見られない特徴ある横穴式古墳である。6c後半に來住した渡来人たちがいかに隆盛を極めたかを示すものであり、その富の源泉は製鉄以外には考えられないと、森浩一同志社大名誉教授は考える。
蘇我に押され気味の物部にとっては穴穂部皇子は希望の星だった。皇子の力の源泉は製鉄にあった。山を神体として鉱山の神の祭祀を行うという意味では、日枝神社と三輪山の神とは共通性がある。実際、後に天智がこの大津の地に遷都したとき、大和三輪山の大物主の神をここに勧請している。書紀によれば穴穂部皇子は、喪に服する敏達皇后の炊屋姫(かしきひめ・・蘇我の馬子の姪)を犯すべく、もがりの庭に侵入しようとして警護の三輪君逆に阻止され,怒った皇子は炊屋姫の宮に隠れる逆を殺してしまう。
敏達の死後、欽明の四男で、蘇我の稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)を母に持つ用明が即位。用明はやはり欽明の皇女で堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)を母とする穴穂部間人(はしひと)皇女を妃にする。この二人の間に生まれたのが厩戸皇子、すなわち聖徳太子である。
間人皇后自身も製鉄と深いかかわりがあったと思われる。丹後地方の日本海に面した港、間人(たいざ)は新羅、高句麗に直結する地にあり、皇后や皇后を支える氏族の領地がこのあたりにあった。間人から内陸に入った弥栄(やさか)町には大規模な製鉄遺跡が発見されている。弥栄は当て字であり、高句麗系の八坂氏が居住した地に違いない。京都東山の八坂の塔で知られる法観寺は飛鳥時代に八坂氏により建設されたもの。
高句麗から飛鳥に至るルートは、若狭や敦賀から近江を経るものと、丹後半島からのものとの二つがあった。前者には若狭の豪族膳臣(かしわでのおみ)、琵琶湖から宇治までの水上交通を支配したと思われる和邇(書紀では爾は王偏に耳)氏が深く関わっている。湖西の和邇、堅田、志賀町あたりが本拠であるが、近江八幡は応神の后、丸に(爾に之繞 わにと読む)比布礼能意富美(ひふれのおほみ)を祭り、湖東にも和邇氏の勢力があった。応神は宇治の木幡で宮主矢河枝比売に出会ったと古事記は記すので和邇氏の勢力は宇治あたりまで及んでいた。奈良付近を本拠とする春日臣も和邇氏の同族と伝えられるので高句麗使節の通った琵琶湖ルートは膳氏と和邇氏が押さえていたと見てよい。
聖徳太子の親族、側近は高句麗との通交で活躍した人たちが中心ということになる。太子が最も愛した妃で死後も共に葬られた膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)の娘、膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)はその代表格である。
穴穂部皇子は物部とともに滅ぶが、配下に多数の渡来人を従えていたことから進歩派だったのかもしれない。大津穴太の渡来人集団の間には穴穂部皇子への哀惜の念とともに蘇我氏に対する恨みの念もあったかも知れない。蘇我氏を討った天智が穴穂の地へ遷都した背景には、この集団が支持してくれるだろうとの計算があったのではないか。 (了)