シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第 4 節 「天皇制古代国家の形成」

直木孝次郎著「古代国家の成立」中央公論社刊「日本の歴史 2」他より

1.飛鳥時代

飛鳥に都があった200年ほどの内、仏教の渡来した欽明朝から645年の大化の改新までのおよそ100年を普通、飛鳥時代という。即位後20年にして飛鳥に入った継体天皇は磐余(いわれ)の玉穂に宮をおいたという。初代の天皇、神武はまたの名を神大和(かむやまと)磐余彦(いわれひこ)といった。新しい王朝を打ち立てた継体は第二のイワレヒコと呼ばれることを期待していたのかもしれない。

継体・欽明朝には二つの中心があった。天皇と豪族蘇我氏である。天皇専制で行くか、それとも豪族連合政権で行くかをめぐってこの時代は揺れ動く。大伴氏は欽明朝の初期に失脚して政治の中心から姿を消すので、残る物部氏と蘇我氏とが対立抗争する。物部氏はその保守性ゆえに没落していく。

2.蘇我・物部戦争

蘇我・物部は仏教渡来(538・552?)以来小競り合いを繰り返すが、585年に敏達天皇が死に、その後の皇位継承をめぐる対立で最終段階に入った。天皇の諸皇子の中では皇后広姫(近江の豪族息長真手王の女)が生んだ押坂(おさかの)彦人大兄が有力であった。しかし敏達の父欽明には身分の高い妃たちが生んだ皇子が沢山おり、その一人である蘇我稲目のむすめの堅塩媛(きたしひめ)の生んだ皇子が蘇我氏の強力な支援のもとに用明天皇として即位することとなった。

これに不満を抱いたのが欽明の他の妃である小姉君(おあねぎみ)が生んだ穴穂部皇子であった。皇子は敏達天皇のもがりの宮に押し入り皇后の炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)に乱暴しようとして敏達の第一の寵臣であった三輪の君 逆(さかう)に押しとどめられた。穴穂部の背後には排仏派の物部守屋、穴穂部と同母弟の泊瀬部(はつせべ)皇子がいた。

穴穂部は守屋と馬子に「逆は無礼だ。斬りたい。」と伝え、二人は「御意のままに」と答えたという。敏達は逆に「ことごとく内外の事を委ねた」と記されている。連(むらじ)や臣という官制のもとに政治の合理化をはかりつつある馬子としては逆のような側近政治を認めたくない。特高警察の元締めを以って任ずる守屋は、自分以上に有力な側近を認めることはできない。両者の穴穂部への答えは意味深長である。守屋は穴穂部皇子と共に兵を率いて逆を追い詰めた。馬子は穴穂部を途中で引き止め、守屋ひとりに先帝の寵臣を殺す責任を負わせ人望を失わせようと仕向けたのであり、馬子のほうが役者は一枚うわてだった。

このような騒ぎの中で即位した用明天皇は即位二年にして病に陥り翌年(587年)逝去した。皇太子には押坂彦人皇子が立てられていたが宮廷は騒然とし、身の危険を感じた守屋は河内国(八尾市)に引き下がり戦備を固めつつ穴穂部皇子の即位を画策した。蘇我馬子はこの段階で、泊瀬部皇子を取り込み後継天皇にする工作をおこなうことで穴穂部を孤立させ、穴穂部と険悪な関係にある炊屋姫に取り入って、同皇子を誅せよとの詔を出してもらい皇子を殺してしまった。このとき用明の第一皇子である厩戸皇子(聖徳太子)は馬子の側についた。

諸豪族や多くの皇子の支持を得た馬子は、河内の古市や信貴山西方の志紀郡にある物部氏の根拠地で戦勝し守屋は戦死した(587年7月)。ここに蘇我氏の全盛時代が始まり、天皇専制は一頓挫する。翌月、泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位したが影の薄い天皇であった。馬子が天皇の棚上げに成功したとものとみられる。592年、天皇は献上された猪を見て「いつになったらこの猪の頭を切るように、いやな男の首をはねることができるだろう」と呟き、身辺の兵を増やして事を起こす気配を示した。これが妃の大伴小手子(おてこ)から馬子の耳に入ったので、馬子は先手を打って配下の東漢直駒(あずまのあやのあたいこま)に命じて崇峻を暗殺した。

3.聖徳太子の登場

後任の天皇選びは難航したとみられる。選択肢は、敏達と炊屋姫との間に生まれた竹田皇子と、用明と穴穂部間人(はしひと)皇女との間に生まれた厩戸皇子のいずれかであった。いずれとも決めかね当面の繋ぎの措置として、炊屋姫自身が最初の女帝として即位することになった(推古天皇)。その後おそくとも推古八年頃までには厩戸皇子が立太子され摂政となったが、推古は長命で36年間もその位にあったため、その間に厩戸を含め次期天皇候補と目された諸皇子が次々と亡くなっていった。

聖徳太子の父は用明天皇、母は穴穂部間人(はしひと)皇女で共に皇族である。他方、用明の母は堅塩媛(きたしひめ)、間人皇女の母は小姉君(おあねぎみ)で共に蘇我稲目の娘である。聖徳太子は天皇家と蘇我氏の両方の血を引いているだけでなく、仲の悪かったとされる堅塩媛系と小姉君系の両方の血も受けており、当時の入り組んだ政界の大事な結び目に位置する人物であったといえる。因みに聖徳太子という名は後に送られた尊称である。

太子の基本的政治的立場は、天皇中心制のための天皇権力の強化にあったと思われるが、舅にあたる馬子が健在で推古の信頼も厚かった以上、馬子との正面衝突は避けるとの考えであったと思われる。馬子としては天皇の権威は尊重利用しながらも実権は豪族連合で采配するということに目標を置いていたといえる。

4.対外関係の活発化

推古新政権がまず処理しなければならなかったのは、崇峻朝以来の継続事業である新羅征討問題であった。591年(崇峻四)に編成された2万の兵力は筑紫に滞留したまま595年(推古三)には大和に引き揚げた。渡海征討は不発に終わったが新羅はそれなりの圧力を感じたとみてよい。598年に新羅はカササギ二羽、続いて孔雀一羽を珍鳥として献じ越し恭順の意を示した。(599年には百済から駱駝、驢馬、羊、白雉が献じられている。)

この頃中国では、南北に分裂していた諸王朝が589年に隋により統一されている。この余波は百済・新羅に及んできており日本も無関心では居れなくなった。日本には新羅に併合された任那を再興するという名分もあった。600年、日本は再び新羅攻撃を実行した。派遣軍幹部には蘇我はじめ諸豪族の名が見られ、馬子の主導によるものだったことを窺わせる。このとき日本は隋に対して使いを送っている。新羅への武力行使に隋が過剰反応しないようにとの配慮があったのではないか。中国王朝に対する遣使は100年ぶりであり、日本は積極外交に踏み切ったと言える。

新羅遠征は成功した。新羅はほとんど抵抗せず白旗を掲げ、任那の主要部分を日本に返還したとされる。しかし任那は国としては復活しなかった。任那地域からの調(みつぎ)の品を新羅が代わって集め日本に納めるとの従来からのやり方(新羅はこれを守って来なかった)を励行するということで新羅が降伏に応じたのではないか。

新羅はその後、百済との戦闘に勝つなどして国力が上昇したことから日本との約束を守らず、602年には再び新羅征討が計画された。兵力は前回の倍の二万五千と記されている。司令官は太子の同母弟の来目(くめ)皇子であることから、聖徳太子の直接関与が強まったように思われる。来目皇子は渡海準備中に筑紫で病死(新羅の刺客に殺されたとの説もある)、後任の異母弟の当麻(たきま)皇子が難波から九州に向かったが途中で同伴した妻が死亡したため都に引き返し、遠征は結局中止されてしまった。

遠征に先立って百済と高句麗には601年に使者を送り、任那復興に協力するよう要求した。渡海は中止されたので両国がどうしたかは不明であるが、新羅が強大になることを恐れていたから日本に協力する用意はあったと思われる。602年には百済僧 観勒(かんろく)が日本に暦、天文・地理、遁甲(兵術)、方術(仙人の術)などの書を伝え、高句麗からも二人の僧が来日していることなども、両国の協力姿勢を示している。

610年には新羅と任那の使いが来朝している。難波から大和川をさかのぼり飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)で接受の儀式と宴を設けている。書紀の記述ではもっぱら馬子が中心になって応接しており、聖徳太子の姿はみえない。半島関係は馬子が伝統的に処理してきており、太子は一歩下がった位置にあったようである。

5.冠位十二階の制

新羅遠征が中止された年、冠位十二階の制が定められた。それまでは氏族の姓(かばね)によって地位の上下が決まっていた(氏姓制)。官職・官人の増加によりそれまでのやり方のみでは律せなくなってきており、整理しなおす必要に答えたものであろう。姓が氏族全体の地位を示すものであったのに対し冠位は個人に与えられるものであるので、官僚制の発達を示すものであるが、馬子自身は冠位を有しておらず又、高級官人の多くは冠位制から超越していたらしく、十二階の制度の革新性を実態以上に強調することは誤りであろう。

6.十七条憲法

十七条憲法は冠位十二階制の翌年(推古十二)に、書紀によれば「皇太子みづからはじめてこれを作る」と記されている。しかしこれには異説もあり、さらには太子自身の手になるものかどうかも江戸時代以降、疑われてきた。近年では昭和初年に津田左右吉氏が、奈良時代に太子信仰が高まった際に作りだされた話だとした。確かに推古朝ではまだ国司制が出来ていないのに「国司国造」なる言葉が使われているなど疑問点は多い。「国に二君無し、民に両主無し。率度の兆民、王をもって主となす」などは、蘇我氏などの雄族が居並びそれぞれが部民を支配していた当時の状況には合わず、壬申の乱をへて天皇の地位が向上した天武朝や公地・公民制が実質的に完成した持統朝の頃の方がこの憲法の背景としては似つかわしい。

実態は誰にもわからないが、太子真作の憲法原文がその後失われ、若干の遺文や伝承をもとに後世に作り出されたといったことではなかろうか。こめられた思想や用語は儒教・仏教・法家などから広く取り入れられており、いかに太子が偉大であったとしても七世紀初頭の日本でそこまで高等な文章が書けただろうか、という疑問を抱かせる。

太子が斑鳩宮(現在法隆寺のある地)を造り移り住んだことは、昭和九年の発掘で史書が伝えることと符合し事実であることが確認された。飛鳥からは20キロほどの地であり、太子は隠遁したわけではなくむしろ難波から海外に通じる情報ルート上に身を置き、ここに帰化人や外国からの僧・学者を集めて海外事情を研究し、朝鮮問題一辺倒の蘇我馬子よりも広い視野に立って隋との国交を開き、外交を通じて日本の立場を向上させることにより天皇専制への道を開こうとしたように思える。

7.遣隋使

607年、大徳小野妹子の使節が洛陽に到着した。同じ年、百済も隋に使節を送って高句麗を討つことを要請しているなど北東アジアの情勢は微妙な段階にあった。妹子に携行させた国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の一文があった。煬帝帝は「蛮夷の書、無礼なるもの有り、またもって聞する勿れ」と怒ったとされる。あけて608年、妹子は隋の返使(斐世清)とともに百済経由で帰着し遣使は成功した。筑紫帰着の報を受けて難波の津に隋使歓迎の館を急造し、一行の難波到着の際には飾り船三十艘で歓迎したという。対隋外交の成功を受けて聖徳太子の喜びようは大変なものであった。

妹子は一足先に難波を立ち飛鳥に戻って復命した。百済国を通過中に煬帝からの国書を百済人に盗まれたことを報告、群臣は妹子には流刑が相当としたが、天皇は、事を公にすれば国書を失ったことが隋に知られ却ってよろしく無いとして妹子を許した。当時、百済は日本の動静に神経を尖らせていたので、国書を奪ってでも状況を知りたいとの欲求があったのかも知れない。

隋使の帰国と共に再び小野妹子を大使とする使節が派遣された。この時の国書は「東天皇、つつしみて西皇帝にもうす」で始められていた。その後614年に最後の遣隋使が派遣された。犬上君御田鍬(いぬかみのきみ みたすき)と矢田部造(やたべのみやつこ)という顔ぶれであった。すでに隋は退勢に入っており煬帝は618年に殺され、この年、唐が興り都を長安に定めている。

因みに「天皇」の称号が使われだした時期については確証はないが、隋への国書にも見られるとおり推古朝あたりからではないか。それ以前は「大王(おおきみ)」が使われていて、諸王(きみ)の中の最有力者という程度の意味合いであった。天皇となると諸王を超越した存在となる。津田左右吉氏によれば、中国では「天皇」は宗教的存在である天帝または北極星を指すようである。日本では「おおきみ」は祭祀や宗教性のより強い存在であると認識されていたので「天皇」なる漢語があてられたとみられる。

「日本」という国号の成立は、もう少し下って大化の改新(645年)の頃ではないか。「隋書」には日本という語は見えず「旧唐書」日本伝において648年(大化四)に日本から使が来たことを記した後で「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、故に日本を以って名と為す」とある。

8.太子と仏教

太子と最も関係が深い斑鳩の寺は法隆寺(一名 斑鳩寺)である。今の法隆寺がもともと太子により創建されたものかどうか、また天智以後に再建されたものかどうかについては、明治以降、長い論争がなされた。ただ若草伽藍跡が斑鳩の宮に近接して存在することが考古学上立証されたので、最初の法隆寺は太子かその皇子の山背大兄王(やましろのおおえ)の建立であろうとの推定が可能となった。現在の法隆寺は再建されたものだとはいえ世界最古の木造建築であることに変わりはない。670年に落雷で焼けており、数年後に再建に取り掛かったとして大体700年代の始め頃には完成したはずである。

太子が法華経など三経の注釈書である「三経義ショ(足偏に流のつくり)」を作ったとの話も確証はない。書紀には太子が経を講じたとされているのみである。太子信仰が作り出した話かも知れぬが、太子が仏教に深く傾倒していたことは間違いないであろう。

太子の信仰を伝える遺物として疑うことができないのが中宮寺の曼荼羅である。中宮寺は太子建立の七寺のひとつである。太子の母である穴穂部間人(はしひと)皇后の住まいを皇后の死後、寺とし皇后・皇太后は中宮と呼ばれていたので中宮寺となったとされる。現在の寺は慶長のころ、もともとの場所から西方4−500mに再建されたものである。本尊は有名な弥勒半跏思惟像である。本堂の隅のガラス張り厨子に納められているのが問題の曼荼羅繍帳である。

太子が622年に亡くなった後、その死を悼んだ妃が、太子が往生したはずの天寿国の図を作って太子を偲ぼうと思い立ち、これを知った推古天皇も采女たちに手伝わせてこの刺繍帳を作ったとの由来が、この曼荼羅に記されている。太子は「世間虚仮(こけ)、唯仏是真」と生前に言っていたと銘文にみえる。延命長寿などの現世的利益を願って法興寺を建てた馬子などとは異なり、太子は現世否定の高い境地に至っていたことを示すものであり、太子の晩年は政治から離れ信仰により重きを置く生活に移っていたものと思われる。

太子は49歳で病で亡くなった。その前年には母の間人皇后が、一ヶ月前には妃の一人(最愛の膳-かしわで-妃か)が亡くなっている。三人は一緒に河内の磯長(南河内郡太子町)に葬られた。二上山の西麓で斑鳩宮からは20キロのところにあり付近には推古天皇陵もある。

9.舒明天皇

太子の亡くなった翌年(623)、とどこおる新羅からの調貢を促すため久しぶりの遠征軍が派遣された。すでに現地に派遣されていた日本から使者が、新羅から貢物を送る約束を取り付け帰国の途に着かんとしたときに沖合いに日本の軍船が押し寄せるというチグハグが生じている。遠征軍派遣を急ぎすぎたことを馬子は後悔している。その翌年には、「葛城の県(あがた)は蘇我の本拠(うぶすな)だから私に頂きたい」と馬子は推古天皇に願い出たが、葛城は大和に六ケ所の御県(みあがた 天皇家御料地)のひとつであり断わられた。晩年の馬子は判断力にも衰えが目立ったようであり626年亡くなった。明日香村の石舞台古墳がその墓と伝えられている。

628年、73歳の推古天皇は病におちいり、後継候補の山背大兄王(聖徳太子の長子)と田村皇子(敏達天皇の孫)を別々に呼び遺言して翌日逝去した。皇位を望んでいた両者はいずれも自分に譲位されたものと理解し紛糾した。父の後をついで大臣になった蝦夷(えみし)は群臣を自分の家に集め協議したがまとまらなかった。その間、叔父の摩理勢が山背大兄擁立に動き始めたのが刺激となって蝦夷は田村皇子支持に踏み切り、叔父を殺して田村皇子を舒明天皇として皇位につけた。(蝦夷は後に舒明の子である中大兄皇子に殺されることになるが歴史の皮肉である。)

舒明朝では630年、新しく興った唐に最初の遣唐使が送られ、九重の大塔を持つ百済寺の造営が着手された。その翌年の641年、再び皇太子未定のまま舒明は49歳で没した。

10.入鹿登場と反入鹿連合

皇位は舒明の皇后(宝皇女)が皇極天皇として継いだ。本来、中継ぎ的な女帝としてであった。後継天皇として男子候補者が少なくとも三人おり決まらなかったからであろう。舒明の皇子には古人皇子(蘇我法提郎媛-ほてのいらつめ-との間)と中大兄皇子(宝皇女との間の長子でこの時16才)の二人がいて対立していた。もう一人は、先に舒明と皇位を争った山背大兄王(やましろのおおえ)で、なお健在であった。

天皇の補佐には蘇我蝦夷に息子の入鹿が加わった。父 蝦夷の公平・慎重な性格に比し、入鹿はその才気と家柄を頼んでの傲慢・勝気で自尊心が強い性格であったようだ。643年10月には蝦夷は病で朝廷に出仕しなくなり、紫の冠を勝手に入鹿にさずけて大臣の地位を与えた。本来、このような叙任は天皇の行なうべきことであった。11月、入鹿は斑鳩の宮に兵をさしむけ山背大兄王を襲撃した。王は一旦は生駒山に逃れるが斑鳩に戻り后や王子とともに自殺したので、ここに聖徳太子ゆかりの上宮王家は滅んだ。入鹿としては中大兄が成人する前に蘇我の血を引く古人皇子の立太子を早く決めてしまいたいと強引に事を運んだのである。 入鹿の次の標的は中大兄皇子であることは今や誰の目にも明らかになった。入鹿が古人皇子の立太子を急ぎそのもとで独裁者になろうとしていることに、天皇家や他の諸豪族の懸念は高まった。この形勢下で蘇我氏打倒に立ち上がるのが中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ、のちの藤原鎌足)である。作り話であろうが鎌足は飛鳥の法興寺(飛鳥寺)での打毬(うちまり)の遊びに紛れて中大兄と知り合い、南淵請安のもとへ共に学問に通う途上に密談を凝らしたとされる。鎌足31歳、中大兄19歳であった。鎌足は蘇我氏内部の不和も利用し蘇我石川麻呂を仲間に引き入れることに成功した。鎌足は石川麻呂の娘を中大兄の后にとりもっている。

かかる反入鹿連合の動きに入鹿も素早く対応している。飛鳥川に臨む甘橿岡(あまかしのおか)に父と自分の家を並べて建て城柵、兵器庫をおいて守りを固め、帰化系の漢直-あやのあたい-の一族などを防備のため配置した。また畝傍山の東にも家を建て、堀と城壁を巡らし東国の優れた兵士で警固させた。甘橿岡からは皇極の板蓋宮はじめ諸宮、諸寺が一望のもとにみわたせ飛鳥の心臓部にあった。

11.蘇我氏滅亡

入鹿暗殺計画は中大兄と鎌足の間で練られた。645年、朝鮮半島三ヶ国からの使節が調(みつぎ)を進める儀式が迫っていた。入鹿は職責上、必ず出席する。上表文を読み上げるのは石川麻呂の役でそれを合図に朝廷警固を務めとする三人の刺客が入鹿に切りかかるという計画であった。6月12日、その日が来た。天皇は大極殿に御しその側に古人皇子が侍した。少し遅れて入鹿が座に着いたが剣を身に着けていない。鎌足が宮中の道化師に言いつけてうまく剣をはずさせたのである。

中大兄は宮中警固に命じて諸門を閉じさせ自らは長槍、鎌足は弓矢を持ち、刺客二人には剣を持たせて陰に潜ませた。石川麻呂は合図の上表文の朗読を始めるが何事も始まらず不安に声や手もふるえる。怪訝に思った入鹿が質すと、石川麻呂は天皇の前だから汗が出るのですとシドロモドロの応答。その時、中大兄を先頭に刺客が斬り込み入鹿に斬りつけた。負傷した入鹿は天皇の前に倒れた。天皇は「一体何事か」と問うたのに対し中大兄は「入鹿は皇統の皇子を亡ぼし皇位を傾けようとしている。皇統に入鹿が代わってよいものでしょうか」と奏上した。これが書紀の叙述のあらましである。

入鹿は死に古人皇子は自分の宮に逃げ戻り閉居した。中大兄は直ちに法興寺に入り戦備を固めた。法興寺は飛鳥川を隔てて甘橿岡に対峙しており、発掘調査で判明したところでは厚さ五尺もの築地塀で周囲を固めていた。蘇我側は蝦夷のもとに一族が参集して防備を固めた。中大兄は使いを送って君臣の義を述べ帰順を促がした。蘇我一族の多くはこれに応じ武器を捨てて立ち去ったので、大勢はこの日のうちにきまった。翌日、甘橿岡に残っていた蝦夷は、かって馬子が聖徳太子とともに編纂した天皇記・国記はじめ所蔵の珍宝に火を放った上で自殺した。

12.大化の改新

皇極天皇は中大兄に皇位を譲ろうとしたが中大兄は鎌足とはかった上でこれを辞退し、かわりに軽皇子を推薦した。軽皇子は年長の古人大兄を推したが、蝦夷父子を失った古人皇子はすでに法興寺で髪をおろし吉野山に入って身に及ぶであろう危険を避けたという。そこで軽皇子は皇位に就く事を了承し、蝦夷自殺の翌日には即位の儀式が執り行われている。軽皇子は孝徳天皇と称し中大兄(当時20歳)は皇太子となった。

即位の日から五日目、天皇・皇極上皇・皇太子は大槻の木のもとに群臣を集め、「帝道唯一」を神々に誓い大化の年号を定めた。天皇の絶対的地位の宣言がなされたのであり聖徳太子の理想がここに実現されたといえる。

新政府が成立して二ヶ月後、革新的意義をもつ政策が次々と打ち出された。第一は東国(三関の東の意)の全人民の戸籍の作成と田の面積の計量であった。ただし公地・公民制の糸口をつけた程度とみられ、過大評価はできない。第二は大和の六県に、東国同様、造籍・校田が命じられた。天皇家の直轄領である御県(みあがた)を対象としたものであった。第三は朝廷に櫃(ひつ)と鐘を置き、上司の裁きに不服のものは櫃に投書して朝廷の裁定を求めることを認め、それに不服の場合は鐘を鳴らしてさらに訴えることを認めたものである。第四には生まれる子についての法を定めた。良男と良女の子は父につけ、良男と婢(賎女)の子は母につけ、良女と奴(賎男)の子は父につけ、奴婢間の子は母につけるというものであった。良男・良女は一般公民をさした。第五は僧侶と寺院の統制のため十師や寺司を任命したことである。

その一ヵ月後(九月)、吉野に入った古人皇子に謀反の企てがあることが露見し、中大兄は直ちに兵をすすめ皇子を殺した。謀反には蘇我系のものが加わっていた。

645年(大化元年)、都が飛鳥から難波に移された。翌大化二年には4項目のいわゆる大化改新の詔が出された。公地公民の制を明らかにし(第一条)、京および地方の行政組織と交通・軍事を整備し(第二条)、戸籍・計帳・班田収受の法をたて(第三条)、古い税制から田の調などの新しい税制に移ること(第四条)が定められた。隋・唐の律令制を模範とした整然とした中央集権制が意図されていたといえる。但しこの詔は、津田左右吉氏や井上光貞氏の指摘にもあるとおり、書紀の編纂者が後にかなり粉飾した嫌いがあり、額面通りには受け取れない。このほか「八省百官の制」などにより官僚制の整備も進んだ。

このようにして天皇専制・中央集権が進み、公地公民制により土地と人民の画一的支配の端緒が開かれ、それらの完成までにはなお時日を要するが、一応、古代国家の骨格がこのときに固められたと言える。改新に至る背景には内外の要素があるが、外的には隋・唐の大帝国が成立し、その政治組織についての新知識がもたらされ、これら大国からの圧力も感じられたので整備を急いだとの事情があった。

13.難波の都

649年(大化五)、蘇我石川麻呂が中大兄の暗殺を狙っているとの密告が中大兄にあり、これを聞いた天皇は石川麻呂が望んだ申し開きを許さぬまま兵を差し向けた。石川麻呂は難波の宅をのがれ飛鳥に築造中の氏寺である山田寺に入った。一戦を交えるべしとの長男を抑えて妻子と共に仏殿で自殺してしまった。到着した討手の軍が調べた結果、石川麻呂には謀反の企てなど無かったことが判明、中大兄は早まった措置を悔やんだと言う。中大兄の妃である蘇我の造媛は父石川麻呂の死を聞いて悲嘆に暮れやがて病没した。

この難波長柄豊崎宮の所在については長らく二つの説があった。ひとつは旧東成郡豊崎村長柄の地(今の北区長柄)、他の一つは大阪城の堀のすぐ南、上町台地上とする説である。その後、上町台地の法円坂町で発掘が続けられ奈良朝時代(天武の頃)の難波宮までは確認されるに至った。孝徳朝は天武朝に先立つこと20数年に過ぎず当時の難波宮もその付近にあったと考えて差し支えあるまい。

653年、孝徳天皇と中大兄との不和が表面化した。中大兄は皇極上皇、弟の大海人皇子はじめ公卿・百官を引き連れて飛鳥に移ってしまった。不和の理由は判然としないが、天皇の皇后である間人皇女までが天皇を捨てて中大兄に従ったことから憶測を呼ぶ事件である。国文学者の吉永登氏は、孝徳が大和へ行ってしまった皇后に次のような歌を送っていることに着目して、尤もと思われる説を立てている。

金木(かなき)つけ わが飼う駒は 引き出せず わが飼う駒を 人見つらむか

古代には「見る」と言う言葉に夫婦の契りを結ぶという特別の意味があった。「駒」は間人皇女、「人」は中大兄を指すとみれば、中大兄は叔父の天皇から皇后を奪ったと言うことになる。皇后が孝徳を捨てて大和へ走った疑問はこれで解ける。ところで中大兄と間人皇女は同母の兄妹であった。古代ではこのような両者間の結婚はありえないことではなかったが、当時でもさすがに公にはできないことであり、まして間人皇女を皇后に中大兄が皇位につくことは許されなかったであろう。吉永氏は中大兄が正式に即位するのは間人が亡くなってからだと論じている。確かに間人が死ぬのは665年、天智天皇の正式即位は668年である。なぜ中大兄は23年もの長い間皇太子のままでいたかという古代史の謎もこれで解けるのである。孝徳天皇は654年に亡くなっている。

14.悲劇の有間皇子

孝徳の長子である有間皇子は孝徳の亡くなったときはまだ15歳であったことや、すでに中大兄が皇太子に立っていることから、皇子には即位の見込みは無くなっていた筈である。ところが孝徳のあとは皇極「上皇」が斉明天皇として62歳で復位しており、このようなことは史上、初めてである。通説は、中大兄としては皇太子でいるほうが政治的に自由に活動できるからだとするが、吉永説のほうが筋が通っている。中大兄が即位できない事情を抱えていると言うことになれば、有間皇子が即位への希望を持ちはじめることはありうる事だということになる。

事件は658年、天皇や中大兄が紀州に湯治に出かけた飛鳥で起きた。留守を預かる蘇我の長老赤兄(あかえ)が有間皇子を訪ね、大土木工事の負担にあえぐ世間の不満を引き合いに皇子に謀反を勧めた。経験の浅い皇子は、飛鳥の留守を預かるほどに中大兄の信頼を得ている赤兄に警戒するどころか、その夜の謀反の合議に進んで参加してしまったのである。赤兄は夜半、皇子を捕らえ中大兄のいる紀の湯に護送、皇子は訊問を受けた後、処刑されてしまった。赤兄の皇子に仕掛けた罠は中大兄と示し合わせた上でのものだったと言うのが通説である。

紀の湯へ護送される途次、磐代(いわしろ 紀の湯まで20キロ)で皇子が詠んだ歌

 家にあれば ケ(竹かんむりの下に司)に盛る飯(いい)を 草まくら
旅にしあれば 椎の葉に盛る

661年、斎明天皇は中大兄や大海人とともに百済救援のため九州の那の津に進出し、その年、現地で亡くなった。中大兄と大海人はこの時期、密接な協力関係にあったので有間皇子亡き後、中大兄の地位を脅かすものは皆無となった。中大兄は斎明の亡くなった翌年から六年間、即位することなく「称制」といわれる統治を続けることになる。天智天皇としての即位は667年の近江遷都の翌年の正月であった。 (了)


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