シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第 5 節 「よみがえる湖都」

「よみがえる湖都」−−大津の宮時代を探る 田辺昭三 1933年静岡生まれ 立命館大卒 74奈良大学教授 78京都市埋蔵文化財研究所調査部長 京都市立芸術大講師 「須恵」、「発掘」、「古墳の謎」、「謎の女王卑弥呼」、etc.

1. 大津の宮時代の遺跡

伝崇福寺は大津の宮の頃の京都へ入る志賀峠(山中越え)越えの大津側入り口にあった。京都側北白川には北白川廃寺という白鳳寺院址がある。

2. 古墳群

穴太から錦織にかけての500基を超える古墳群は関西でも有数の古墳地帯。北から穴太、大谷、大通寺、百穴、池ノ内、福王子、宇佐山と群集墳墓が並ぶ。ほとんど6c後半から7c前半の短い歳月の間に作られた。群集墳は全国に見られるが湖西のものは一般とは著しく異なる特徴を持っている。

普通、6−7世紀の古墳は横穴式石室を主体部とするものが多い。羨道(せんどう)とよぶ通路と墓室である玄室からなり、玄室は縦に長い方形に設計されている。石室の壁はほぼまっすぐに立ち、天井には大きな石を二、三個のせる。

穴太、錦織の古墳の多くは、玄室の平面形が正方形または横に長い方形である。羨道は玄室の長辺にとりつく。玄室の側壁は石材を持ち送り式に積み上げ天井に巨石一個を置いて、積み上げた側壁の石を上から押さえつけている。こうした特徴は朝鮮や中国(たとえば新羅の忠孝里10号古墳)に良く似た構造である。

湖西の滋賀郡内、わけてもその北半の旧大友郷地内には穴太古墳群をはじめ、大谷、百穴、福王子古墳群など朝鮮、中国墓制の系譜につながる古墳が集中しており、この地が渡来者集団の集住したところであることをしめしている。大津の宮時代より少なくとも半世紀以上さかのぼることになるが、大津の宮立地とのなんらかの関連があったとみるべきである。

3. 書紀に出てくる大津の宮の記述

4. 南滋賀廃寺の瓦

南滋賀廃寺の寺域から西100mの山斜面に三基の瓦窯址がある。発掘調査の結果「ハン(木偏に作りが山を書いて豆)の木原瓦窯址」と名づけられた。ここで焼かれた瓦の瓦当文様と製作技法を吟味した結果、当時畿内で一般的だったいわゆる高句麗百済様式とは異なり、慶州などの新羅系に最も近いことがわかった。通常、瓦は全国各地に供給されるが、この瓦に限っては供給先が湖西の大津の宮周辺に限定されている。蠍に似た蓮華紋の方形瓦当などは他に類例が全く見られない特殊な紋様。

穴太廃寺より北の衣川廃寺(堅田の手前)で出土した複弁八葉蓮華文の瓦当はハンの木原瓦窯の瓦よりやや古いとされているが、これも慶州(月城郡)多慶瓦窯址の出土品に類例があり、新羅とのつながりが観察される。

ハンの木原瓦窯の工人は新羅の造瓦技法を持った人々であり、場合によっては新羅からの渡来人自身だった可能性を考えることができる。

5. 大津の宮址の発見

1974年は大津の宮研究にとって画期的な年となった。錦織御所の内の一角で宮の一部と推定される大きな建物跡が発見された。明治に建てられた「志賀宮址碑」のすぐ南側の住宅地で、一辺が1.5メートルの正方形の巨大柱穴がみつかり、周辺を掘り進むと3m間隔で13箇所から東西南北に整然と並ぶ柱穴群が発見された。深さは1.5m、柱の直径は30cmで、その大きさは、平城宮内の主要建物に匹敵するほどの規模であることが判明した。83年には天皇の私的空間である内裏正殿とみられる建物跡が発見された。発掘を担当したのは、滋賀県文化財保護課技師の林博通であった。それまでは、ほとんど地名によりどころを置いた推測に過ぎなかった「錦織説」に、まごうことのない考古学的物証が初めて得られた。その後、1978年までの三年間に100箇所近い発掘調査が行われ、三箇所から大津の宮を確定する遺構がさらに発見された。03年にはおおよその宮域、約1万6千平米と推定されたが、その具体像は幻のままである。

6. 近江遷都の理由(著者仮説)

一般には、663年の白村江での敗退の結果、唐・新羅による侵攻から宮都を防衛するためとされている。水城・山城などを對馬、九州、瀬戸内各地で建設したのもこの一環と理解されている。

しかし後述の通り(とりわけ頻繁な使節の往来)の諸点を考えると意に染まぬ遷都だったのではないかと考えたほうが良いのではないか。近江遷都は、戦勝国として振舞った唐・新羅の内政上の諸要求の一つであったと考えることができるし、城の構築も戦勝国の指示で建設させられたと解する方が、色々な点で合点が行くのである。

(1)頻繁な使節の往来は軍事的圧力?

敗戦は、発足したばかりの中大兄政権の大きな負担となった。書紀によれば、敗戦の翌年、唐の百済鎮将の劉仁願が部下の郭務綜(糸偏を立心偏に置き代える)らを日本に派遣越した。その目的は単なる儀礼的なものではなく、戦勝国としての厳しいものであったと考えるほうが自然である。(注:北山茂夫著「天武朝」の記述は異なる。「敗戦後の日本に威圧を加えつつ、わが内情を偵察し、同時に外交上の宥和策を示したものと思われる。唐としては半島統一を狙う新羅との対立を孕んでいたし、百済の治安状態にも険しい様相が見られ、日本政府の出方が気になったからだろう」としている。

内容は不明であるが、室町時代に瑞渓周鳳が著わした「善隣国宝記」に「海外国記」からの引用として次のような記載がある。郭の一行は対馬に着いたが、日本側は僧智弁らにより応対した。郭の持参した将軍の文書と献物のうち、献物をあらためたのみで文書も含め、受け取らなかった。9月に入り僧智弁らは郭に対し「使者は百済鎮将の派遣した私使であり、中国の天使の使者ではない。したがって入国は許さず文書も朝廷には送らず,言辞をもって奏上するのみである」と返答した。そして12月に郭に対し、鎮西将軍の名で文書で返答した。郭らが公の使ではないから入京させないことを縷々述べたものであった。多分、郭のもたらした文書の内容は戦勝国としての相当、厳しい内容のものだったのであろう。

唐使の来朝はこのあと急に頻繁になる。翌天智4年(665)には唐使 劉徳高が書簡をもって筑紫へ、667年には唐の熊津都督府県令が劉仁願の命で、唐に派遣されていた日本人を送って大宰府へ、天智10年(671)には1月に李守真が、11月には、唐の使者郭務綜(木偏)ら600人と百済の沙宅孫登ら1400人の合わせて2000人が、47艘に分乗して対馬辺りまでやってきた。この2000人はおそらく唐と百済の連合軍であろう。(七尾注:これはおかしい。少なくとも百済からの1400人は帰化を求める亡命者かもしれない。) この軍が筑紫まで到達したかどうか記録はない。この頃、国内では天智が病で倒れ大海人皇子は吉野へ去るという内政上も困難の増した時期であった。新羅からの使者も従来は途絶えていたが、天智朝に入って再び往来が強まった。天智7年(668)には金東厳が来朝、669、671年にも遣使が来た。日本からも660年に使者を派遣している。

この間、朝鮮半島では、唐と新羅の連合で高句麗を滅ぼし(668), 百済地域の唐の傀儡政権が新羅を攻めたので新羅が反発、670年に唐と新羅の戦争が始まり、676年に新羅による半島の統一がなった。(七尾注:この時期、唐の影響力が極東からどんどん後退していったといえる。2000人の唐・百済連合軍(?)が対馬辺りまで来たのは671年。新羅からの使節が頻繁になるのは668年以降。双方とも日本を味方に、あるいは少なくとも敵につかないようにするための工作だったのではないか?)

(2)築城は唐・新羅の指示?

一般には、大和を防衛するための築城だったとされるが、最も重要な防衛線としての生駒、金剛山地に高安城ただ一つというのは理解に苦しむ。唐・新羅がいずれ大和へ侵攻するために大和政権に建設を命じた朝鮮式山城だったのではないか。こう見れば城の地域的配置も合理的なのではないか。唐が軍事的圧力をかける道具として、百済の傀儡勢力を利用して構築した施設ではなかったかと著者は考える。(七尾注:面白いがかなり無理のある仮説。著者は、戦勝国たる唐の指示で築城や近江遷都が行われたと言いたいのだろうがかなりの無理がある。天智朝は本気で築城に励み国防に努めたのであろうが、新羅が唐を半島から駆逐した結果、唐に侵攻される恐れが薄れていき、一種のたるみが天智朝に広まったと解するほうがより自然だと思われる。)

(3)無気力化した天智朝

中大兄が称制して六年目を迎えた667年3月(中大兄41歳)、都が突然飛鳥から近江に遷された。書紀には前年の条に「この冬に、みやこの鼠、近江にうつる」の一文がわずかにあるのみ。内政について中臣氏の「家伝 上」は「朝廷に事無く遊覧これを好む。人に菜色なく家に余蓄あり。民ことごとく太平の世と称す」と記しているが、主体性を失い政権の行方を実質的に唐、新羅に委ねなければならなかった中大兄は、無聊の日々を遊覧や酒宴にまぎれて過ごすほか無かったのではないか。遷都の翌年の正月、中大兄は大津の宮で即位した。

当時、毎年5月5日には遊猟の行事がおこなわれていた。鹿の袋角は鹿茸(ろくじょう)とよばれる強壮剤で貴重な薬物。天智7年(668)5月、恒例の遊猟が蒲生野で行われ、大海人以下諸王や鎌足以下群臣がことごとくこれに従った。

万葉集巻一 雑歌の部

天皇(天智)、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌

あかねさす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる

皇太子(大海人)の答へましし御歌

紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

 額田王は後宮女官群のひとりとして参加していたのである。この歌は薬狩りの楽しい一日の最後を飾る宴の席で天智臨席のもとに座興の歌として詠まれたというのが通説である。額田は若い頃、大海人の妃となり十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだが、その後天智を夫としたという。ただそのような記録は残っていないので、この時三角関係があったかどうかはわからない。額田も大海人もこの頃38歳前後だったと思われる。井上靖の小説「額田女王」では、額田女王はいずれの妃になることも拒んだ女性として描かれている。

女王は天智天皇を思って歌ったとされる次の一首も含め、万葉集に残る12首のうち半数以上が大津宮時代に詠まれている。

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

即位後の天智帝の日常について「家伝 上」は「帝、群臣を召して浜楼(ひんろう)に置酒(ちしゅ)す」とし、書紀は「また舎人らに命じて、宴を所所にせしむ」などとある。書紀は更に即位の年の7月「時の人の曰く」として「天皇、天命まさに及ばんか」とのべ、王朝交替の噂がささやかれ始めていたことを伝えている。

遷都には莫大な資材と労働力を必要とし、これに反対する民衆の声は厳しかった。「このときに、天下の百姓(ひゃくせい)、都を遷すことを願はずして、諷諫する者多し。童謡(わざうた)またおおし。日日夜夜、失火のところ多し」と記している。天智9年(670)正月には誣妄・妖偽を禁止する法令をだすほどで政権は民衆の信頼を失っていたとも見られる。

(4)近江万葉歌の背景

・高市古人の近江の旧堵(きゅうと)を感傷して作れる歌

古(いにしえ)の 人にわれあれや ささなみの 故(ふる)き京(みやこ)を 見れば悲しき

ささなみの 国つ御神(みかみ)の 心(うら)さびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

・柿本朝臣人麿の歌一首

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情(こころ)もしのに 古(いにしえ)思ほゆ

・近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本の人麻呂の作れる歌

天(そら)にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石(いわ)走る 淡海の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめらぎ)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

反歌 ささなみの 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に また逢はめやも

・額田王の近江に下りし時に作れる歌、井戸(いのへ)王のすなはち和(こた)へたる歌

味酒(うまざけ) 三輪の山 あおによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の隠さふべしや

 反歌 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや

これら近江関連の万葉歌は、単に旧地を離れる際の感傷を歌っているのでなく、そこを離れなくてはならなかった歴史の宿命(唐の圧力)への悲しみが背後に横たわっているとも見ることができる。額田王については中西進の詳しい分析がある。それによれば近江鏡山の山麓を根拠地とする渡来系豪族 鏡王の子であったとされる。鏡王女はその姉であったという。

7. 壬申の乱

(1)開戦前夜・・虎に翼をつけて放つ

天智八年(669), 鎌足死亡。有名な蒲生野での遊猟の翌年、山階(やましな いまの山科)で同様の猟があった。山階は中臣鎌足一族の大根拠地であり、鎌足の招待で遊猟が行われたのであろう。猟のあと鎌足は秋ごろから病床に伏し、10月には天智自身が見舞い、死の前日には大海人皇子を遣わして、大織冠と大臣の位をさずけ更に藤原の姓を与えた。鎌足の死は、天智政権の事実上の終焉を意味し、天智も2年後に死去する。

天智10年(671)10月17日, 死期の近づいたことを察した病床の天智は、大海人皇子を召して、後事を託する旨を伝えた。大海人は病気を理由に皇位継承を固辞し、後継天皇には皇后倭姫王(やまとひめのおおきみ)を立て大友皇子を皇太子とするよう請願し、大海人自身は出家して修道したいと申し出た。天智がこの申し出を許すと、大海人はその日に内裏の仏殿の前で剃髪し法服をまとった。そして私蔵のすべての武器を官に返納した。

19日、大海人は吉野へ向かった。大宮人たちは大海人を宇治まで見送った。大海人は飛鳥で一泊、翌日吉野に入った。時の人は大海人の吉野行きを「虎に翼をつけて放てり」と噂したという。この年の11月23日、大友皇子は重臣を内裏西殿の織物の仏像の前に集め、結束を誓わせた。集まったのは、左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連(かねのむらじ)、御史大夫 蘇我果安(はたやす)、巨勢人(こせのひと)臣、紀大人(きのうし)臣の六人だった。赤兄以下の5人はその年の正月にそれぞれの役職についており、皇子自身もそのとき太政大臣を拝しており、大友皇子に天智を引き継がせることが天智の本心だったことは明らかである。死の床での天智の大海人への言辞はわなであり、大海人もそれを知っていたので固辞したとみられる。

(2)大海人と大友の対立激化

天智10年(671)12月、天智天皇は大津の宮で死に、これを境に大海人・大友の両者の対立は急速に悪化した。書紀では大友は悪役とする記事が多く、大海人は止むに止まれず武器を取ったと美化して描かれている。天武元年(672)5月、吉野の大海人に、近江朝廷が美濃、尾張の国司に、山陵を造るので人夫を差し出すよう命じたとの情報が届いた。山陵造営にことよせて兵士を徴発することが目的だったことは明らか。大友側は、大津の宮から飛鳥へ通じる道の処処に斥候を置き往来を監視、宇治の橋守に命じて吉野の大海人への食糧輸送を遮断させたといった情報も大海人に届いていた。

大海人は舒明2年(630)、舒明天皇の第三子として誕生。母は宝皇女、後の皇極天皇である。宝皇女は舒明との間に、葛城皇子(天智)、間人皇女、大海人(天武)の三人を生んだ。

大友皇子は、幸徳4年(648)頃、天智の皇子として誕生。母 伊賀采女(いがのうねめ)宅子娘(やかこのいらつめ)であったという。伊賀采女というから伊賀の豪族の子女で後宮に仕えていた女官の一人であろう。天智が大友皇子を寵愛したのは、後事を託すべき皇子が他にいなかったからという事情があった。他の二人は若年であり一人は体が不自由であった。大友は、若くして傑出した人物で文武に優れた資質を発揮したという。  壬申の年、大海人は43歳、大友は25歳であった。

(3)東国へ

大海人が直接、軍事行動をおこしたのは弘文元年(672)6月22日。近畿各地での戦闘は一ヶ月余り続いた。

6月22日、大海人は側近三名に対し、美濃国安八磨(あはちま)郡の湯沐令多臣品治(ゆのうながし おおのおみ ほんじ)を訪ね、まず同地で兵を挙げるよう伝えよと命じ、加えて美濃の国司らに、速やかに不破の道(今の関が原)を遮断するよう伝えよと命じた。6月24日、吉野を発った一行には草壁皇子、忍壁王子、舎人の朴井連雄君ら20余人。寵妃 ウ(櫨の木偏をとり、造りに鳥)野讃良(うのきらら)と後宮の女官たち10余人だけだった。関戸峠を越え阿騎野を経て名張から伊賀の中山(現在の上野盆地あたりか)に入り(ここでその地の郡司らの数百の兵を率いての参加を得)吉野からほぼ一昼夜の強行軍で伊賀町付近まで到達した。

更に進み積殖(つむえ・・今の柘植)の山口で、近江から馳せ参じた高市皇子と其の従者たちが加わった。積殖は近江から伊勢に通じる鹿深(かふか・・甲賀)越えの道と吉野からの道の合流点。一行は更に加太(かぶと)越えの道で鈴鹿山地を抜け伊勢の関町あたりに到達。加太あたりの郡家で、伊勢の国司らに鈴鹿の山道を塞ぐ任務を与えた。これにより大友側が東国の兵力を動員することを防いだ。

26日の朝、大津皇子が合流し、また美濃兵3000による不破の封鎖に成功との吉報が届いたので、高市皇子を不破に派遣し指揮させた。さらに東海、東山地方に従者を遣わし軍兵を組織した。

大海人の東国行を知った大津の宮では予想通りだったとはいえ動揺が走った。大友皇子は軍議の上、東国、飛鳥、筑紫、吉備へ使者を派遣し大友側支援の兵をおこすことを求めたが、東国への道は遮断され、吉備も筑紫も工作は失敗に終わった。

(4)開戦

まず6月29日に、飛鳥が大伴吹負(おおとものふけい)の活躍により大海人側となった。大海人はこれを大いに喜び吹負を将軍に任じた。7月2日には、奈良の動きに呼応するため数万の兵団に対し、鈴鹿を越えて大和へ進軍することを命じた。また別の数万の軍勢が、不破から直接近江を攻めるべく発進した。大海人は、不破の軍営にあった高市皇子の進言に従い6月27日、桑名を発ってその日に不破の野上の行宮(かりみや)に入った。野上は現在の関が原町野上のあたりだが行宮の跡は判明していない。

大友側は、数万の兵を率いて不破の大海人軍を迎撃するべく犬上川のほとりまで前進した。しかし指揮する三人の将軍の間で内紛が生じ、一人(山部王・・かねてより大海人側に心を寄せていたとの説あり)は殺され、もう一人(蘇我の臣果安)は大津に戻り自殺した。

近江の将軍 羽田公矢国(はたのきみ やくに)が、子の大人(うし)ら一族を引き連れ大海人側に降伏してきた。矢国は改めて大海人側の将軍に任じられ湖北に向かい、7月22日、出雲臣狛(こま)と共同して高島の三尾城を攻略した。

7月7日不破から大津の宮に向けて進発した主力軍は、まず息長の横河(醒ヶ井あたり)で、また、9日には鳥籠山(とこのやま・・彦根市あたり)で近江軍を破り、湖東平野まで南下した。7月13日、この主力軍は野洲川のほとりで(書紀に「男依(より)等、安河の濱(ほとり)に戦いて大きに破りつ」とあり、近江朝廷軍と大海人側の村国の連 男依の軍とが合戦した故地)、17日には野洲川を越えて栗太(くるもと)の軍を打ち破り、22日には瀬田川東岸まで進出した。この間、奈良や河内では両軍の一進一退が展開された。

瀬田川の西岸には大友皇子以下の近江軍が陣を連らね決戦の構えでいた。橋の中央は三丈ほど剥がされ一枚の板が渡されていて、もし大海人兵がこの板に乗れば、板を引いて振り落とす仕掛けになっていた。大海人側の勇者が降り注ぐ矢をかいくぐって板に仕掛けた綱を断ち切り、これを機に大海人軍はなだれを打って大友軍の本陣に迫り、粟津の岡まで軍陣を進めた。7月23日、大海人軍は近江側の将軍 犬養連五十君らを粟津で処刑、大友皇子は山前(やまさき)で自害したとされる。「山前」を京都乙訓郡の山崎ないし大阪・枚方の山崎とする説もあるが、切迫した状況の下で遠くに逃れる余裕は無く、文字通り大津の宮の側の山の前(皇子山あたりか或いは長等山、宇佐山の可能性もある)と解するべきであろう。

7月24日、大海人軍は漣(さざなみ)に終結して残党を探索、処刑し、26日には不破の野上行宮に在った大海人のもとへ大友皇子の首をもって凱旋した。大津の宮は、発掘された柱穴から柱が建築材として抜き取られており、宮が消失したとの説は誤りとみられる。

(5)持統天皇(天武の妃、天智の娘)の崇福寺での供養

持統天皇は吉野(9年間に31回)など各地を繁く巡行したことで知られるが、689年か翌年の春に公卿百寮の人を従えて志賀郡の崇福寺に赴き天智の供養を営んだ。亡父の創建した寺である。この時も柿本人麻呂は供奉を命ぜられ長歌(上出)を献じている。帰路、一行が宇治川に至った際、人麻呂が天智在りし日を忍び、その血脈が女帝に受け継がれていることを思いつつ、現し世の無残な栄枯盛衰に沈思した思いを歌った。

柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時、宇治河の辺に至りて作る歌一首

もののふの八十氏河(やそうじがは)の網代木に いさよふ波の行く方(へ)知らずも

(了)


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