シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第8節 「平氏政権と近江」

「古代の地方史 5 畿内編」第14章「平氏政権」(田中稔 分担執筆、昭54朝倉書店刊)より近江関係を中心に抜粋。 上横手雅敬著「源平争乱と平家物語」(角川選書 平13年刊)からも関連部分を追加。

1.平氏政権

1159年の平治の乱後、清盛は戦功により参議正三位となり公卿に列せられる。当時、後白河法皇と二条天皇派の対立は激化しつつあった。清盛はたくみに政界遊泳を続け1167年、太政大臣まで進んだ。1179年(治承三)、後白河を鳥羽殿に幽閉して院政を停止し高倉天皇の親政とした清盛のクーデタ以後は、日本全国66カ国の内30余ヵ国を平氏が知行する(平家物語)最盛期となる。

平氏は清盛の祖 維衡以来、伊勢国に本拠(伊勢平氏)。祖父 正盛の時、伊賀の所領の一部を後白河の皇女六条御堂(六条院)に寄進して後白河への接近に成功。正盛、父忠盛ともに院に仕え信任を得て官位も上昇。保元・平治の乱を機に政権の中枢に立ち、畿内での勢力を増殖した。

2.保元平治の乱

院政期の鳥羽法皇は、皇子の崇徳天皇を嫌い弟の近衛天皇に譲位させた。近衛が死ぬと崇徳は自分かその子の即位を期待したが、法皇は崇徳の同母弟の後白河天皇を即位させた。他方、院政開始で権勢にやや衰えの見られた藤原家でも、摂関家の地位を守ろうとする前関白忠実が、院政との結びつきを図ろうとする長男の関白忠通を嫌って勘当し、弟の左大臣頼長を愛するという一族内の不和があった。

後白河天皇 対 崇徳上皇、関白藤原忠通 対 弟左大臣頼長 という天皇家・摂関家内部の対立が、1156年(保元 元)の鳥羽法皇の死をきっかけにして、京都における両派の武力衝突に発展した。後白河・忠通側は、源義朝・平清盛らの有力武士を味方にした。義朝の父 為義は崇徳上皇方に加わり源氏も父子が敵味方に分かれて戦った。これが保元の乱。洛中で権力争奪の本格的戦闘が行われたのは長い平安京時代で初めてのこと。頼長は傷死し崇徳は讃岐に流された。

「愚管抄」の著者 慈円は保元の乱を以って武者の世の始まりと記したが、この時、源義朝に付き随ったのが佐々木秀義であった。秀義は、近江における古来よりの沙々貴氏を凌駕・吸収する新興の「佐々木氏」の惣領であった。(近江源氏佐々木氏については後記)

三年後の1159年(平治元)、平治の乱が起きる。義朝と清盛という傭兵隊長同士の対立も一因となった。後白河上皇の近臣 藤原信頼と藤原信西(通憲)の間にも勢力争いがあり、信頼は義朝と、信西は清盛とそれぞれ組んで激しく対立していた。清盛が熊野詣でに出かけた留守を狙って義朝・信頼は挙兵し信西を殺したが、都に引き返した清盛と戦って敗れた。

保元の乱で義朝側についた「近江の矢嶋冠者(やじまのかじゃ)」と呼ばれる人物は、多分、近江源氏の源重実かその子重成かであり、本拠は野洲郡矢嶋(守山市)だったと思われる。重成は平治の乱にも義朝方につき、敗れた義朝が坂東に落ちる際にも同行したが美濃で義朝の身代わりとして自害した。

政権争奪に武士の力が必要とされるに至り、保元の乱では、後白河天皇に付いた源義朝の兵力は近江、美濃、三河、遠江、駿河、伊豆、信濃および坂東諸国、清盛・頼盛の兵力は伊賀、伊勢、河内、備前、備中などであった。天皇側の軍勢の主力は畿外の兵で構成されていたといえる。崇徳上皇側も同様に畿外に兵力を求めようとしたが、入洛を天皇方に阻止された。伝統的に畿内では, 国衙軍(朝廷の正規軍)から独立した地方豪族武士団の数自体は多かったがそれぞれの兵力は小さく、まとまった兵力は畿外に求めるほか無かった。

3.近江源氏の佐々木氏(以下は「滋賀県の歴史」河出書房より)

保元の乱で義朝に付き随った佐々木秀義は、近江における武者の歴史の第一ページを飾った。秀義は宇多天皇の流れを汲む佐々木雅信から七代目にあたる。雅信は宇多天皇の皇子敦実親王の子で平安中期に、近江の佐々木荘(八日市市)に住み着き佐々木氏を名乗った。この佐々木氏は古来よりの近江の有力氏族である「佐々貴(沙々貴とも)山公(やまぎみ)」とはことなるが、新興の佐々木氏は秀義以降、先住の佐々貴氏を凌駕・吸収していくことになる。

乱に際しては、佐々貴山公氏が崇徳上皇方に従ったのに対し、秀義は義朝とともに後白河天皇方につき、乱は天皇方の勝利に終わったため、佐々貴山公氏に対する佐々木氏の優位が固まった。しかし秀義の栄光は長くは続かず、次の平治の乱で義朝が清盛に敗れたので秀義は近江を追われ、相模の国で不遇の日々を送ることになる。この間、秀義はその子定綱・盛綱らを頼朝に仕えさせている。

1140年(治承四)以仁王が平氏打倒の兵をおこし頼朝も挙兵するが(後出)、これには秀義は二人の子に加え経高・高綱も参加させ、伊豆の目代を討つという大手柄をたてさせた。その後も佐々木兄弟たちの武功には目を見張るものがあり、その一つが義仲討伐に際しての佐々木高綱・梶原景季の宇治川の先陣争いであった。

この先陣争いは軍記ものが伝えるところに依れば次のようなものだった。

「義仲討伐で京へ向うにあたって、まず梶原景季が名馬をもらうため頼朝のもとに参上し、第一の名馬として知られたイケズキ(生と二字目は二水偏につくりは食)を所望する。イケズキを惜しんだ頼朝は第二の名馬、磨墨(するすみ)を与える。その後、佐々木高綱が参上してこれもイケズキを請うが、高綱にやれば景季との間で遺恨を残すと思った頼朝は渋った。なおも高綱は、景季が遺恨を抱いても何とか弁解するからと食い下がり強引にイケズキを貰い受けてしまった。

案の定、二人は京への道中で鉢合わせし、景季は色をなして高綱に詰め寄るが、高綱は密かに盗み出したものだと嘘をついてその場を切り抜ける。一触即発の雰囲気で二人は宇治川にたどり着く。

宇治川の畔に臨んで高綱が馬の乗り換えに手間取っているうちに、景季は川に乗り入れて先へ進んでしまう。イケズキをもらいながら景季に後れを取ってしまっては大変と焦った高綱は景季に声をかけて、宇治川は表面はゆっくりに見えるが底の流れは速い、川底に引かれた馬防ぎの綱に引っかかったり石につまづいたりして鞍を踏み外すといけないから、馬の腹帯をしっかり締めなおせと親切顔に注意する。それを真に受けた景季が高綱の注意に感謝しながら腹帯を締めなおしている隙をついて、高綱は先に出てしまう。景季が汚なしと追っかけてみても、高綱は近江の住人だから宇治川のことはよく知っているし、イケズキという関東第一の名馬に乗っていることだし、結局は高綱が先陣ということになった。」

息子達の武勲によって父佐々木秀義も近江に戻ったが、そこでも平氏とのすさまじい戦乱が展開する。息子達の内4人が諸国でそれぞれ奮戦中であった際、平氏の軍勢が伊賀より攻め込んできたので、これを迎え撃つため秀義は残っていた五男の義清をうち連れて甲賀郡にやむなく出陣した。ときに秀義は七十三歳、矢に当たり戦死するが、佐々木一族の繁栄の基礎はここに定まった。以下は「源平盛衰記」の一節である。

「伊賀国山田郡の住人 平田四郎貞継法師と云ふ者あり。謀反を起こし、近江国を打従へて(うちしたがえて)都へ攻入るべしと聞こえければ、佐々木源三秀義 驚き騒ぎけり。我が身は老体なれば東国西国の軍には子息ども 指遣(さしつか)はして下向せず。近き程に敵の籠りたるを聞きながら黙止すべきに非ずとて、国中の兵を催し集めて伊賀国へ発向(たちむかわ)しければ、甲賀上下の群輩 馳せ集まって相い従ひけり」

因みに沙々貴神社(蒲生郡安土町大字常楽寺)は延喜式であり、少彦名命(すくなひこなのみこと)・大彦命(おおひこのみこと)らの神々を祭る。この神社を氏神としたのが古くから湖東に広大な土地を領し勢力をふるっていた沙々貴山公(やまぎみ)氏である。神代の八代目の孝元天皇の皇子大彦命の子孫といわれる狭々城(ささき)山君の流れを引き、奈良から平安時代にかけて蒲生・神崎郡で地方官として活躍していたが、前述の宇多源氏の佐々木氏により、吸収同化されていった。

4.寺院勢力

山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の対立は、9cの円仁・円珍の頃からあった。座主の座を巡って両派が争い、円珍派は円珍自身が再興した園城寺に追放された。荘園の防衛や強訴のために武装した僧兵が登場するのは平安中期頃からである。

延暦寺・園城寺・興福寺・東大寺などは多くの僧兵を擁しており、すでに摂関政治の頃から朝廷に強訴を繰り返し寺院間の対立も頻発させていた。たとえば後三条天皇の時、園城寺の戒壇問題があった。1070年、延暦寺の僧を天台座主に任じたことに反発した園城寺は、座主の交代と独自戒壇の設立を要求したりした。この傾向は院政期なりますます激化した。僧兵の主力は、本山の堂塔にたむろする「堂衆」と各寺領荘園の兵士であった。これらを指揮するのが「大衆」だったとされる。

清水寺は古くより興福寺の末寺とされていたが、延暦寺はこれを山門傘下に収めようとして、平安時代以来しばしば対立を繰り返してきた。1213年にも清水寺の帰属をめぐって対立が起き、興福寺側は直接延暦寺を攻撃しようと企て、神木を奉じて宇治まで僧兵を進出させた。院側は官軍を宇治に派遣してこれを防ぎ。興福寺を慰撫したため戦闘には発展しなかった。その際の興福寺文書が残っており、なかなか興味深い内容である。

興福寺側は、兵力を大手・別手・廻手の三手に分け、大手は山階(やましな)から関山(大関・小関のあった逢坂山のことか)を越えて坂本を攻め、別手は同じく山階から三井寺山へ上り峰づたいに大嶽(比叡山)に向かい、廻手は東近江から湖北の塩津を経て湖西を北から坂本に向けて攻撃するという大作戦であった。主力である大手・別手は興福寺やその末寺の吉野山、東大寺の僧兵と大和国の兵から構成されており、廻手は美濃・近江などの七大寺領の兵士を当てている。

延暦寺の僧兵も大衆・堂衆・一般僧兵の三部構成であった。堂衆は、学生(がくしょう)の一段下級の僧として扱われていたが、武力としては僧兵の主力であったので大衆を侮り、1178年には山門内の武力衝突を起こすまでになっていた。清盛はこの時、大衆側に付き堂衆と武力で対抗した。清盛としては山門全体の支援を得ようと常に苦慮していたが、山門内の対立が消えず、結局は失敗した。

これら南都北嶺の「三千の大衆」といわれる僧たちは、その地に常住していたのでイザという時には容易に動員できた。これに対し平氏の家人たちは比較的遠隔の地にあり、召集に不利が伴った。

5.治承・寿永の内乱

平治の乱後、平氏は全盛期を迎えたが、後白河法皇はじめ貴族・寺社の間では平氏に対する反感も強まっていた。1179年、清盛は遂に法皇を幽閉し反平氏派の貴族多数を処分した。翌年には娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させその父高倉上皇に院政を開始させた。院政は名目だけで実権は清盛が握っていた。

清盛独裁に対する非難は次第に高まり、ついに1180年(治承四)、それまで宮廷内陰謀の形にとどまっていた反平氏の動きは、武力による平氏打倒の方向に急速に進んだ。源頼政・行家(義朝の弟)らは後白河の第二皇子以仁王を擁し、諸国源氏にあてて密かに平氏追討の令旨を発した。以仁王は高倉上皇の兄でかって平氏の支援する高倉との皇位争いに敗れ永い間、不遇をかこっていた。

紀伊の熊野にいた源行家は、以仁王の令旨を伝える密使として諸国に赴いたが、ことは熊野別当湛増から平氏につたわった。以仁王は僧兵の力を頼りひとまず園城寺に逃れ、兵力増強のため南都の僧兵にも頼ることとし宇治を経て南都に向ったが、平等院付近の合戦で頼政は敗死、以仁王も南都への途中で討たれてしまった。乱は失敗したが、興福寺・園城寺がこれを期に反平氏の立場を鮮明にしたことは、平氏にとってはその後、脅威となった。

頼政の敗死後わずか4日目の5月30日、清盛は突如、摂津国福原への遷都を発表、二日後にそれを実行した。貴族や社寺は強く反対したが, 平氏としては僧兵勢力の圧力をかわし、西国により近いところに本拠を置くことにより、地方からの援軍確保を有利にすることを目論んだものとされる。貴族や延暦寺を中心とする寺社の強い圧力で、半年後の11月23日には再び京都へ還都せねばならなくなった。

8月17日には伊豆国にあった源頼朝が挙兵。清盛は平維盛・知盛を総大将として追討軍を東国に派遣したが、東国への途次、近江の武士に召集をかけたが期待した徴兵が出来ず、中には追討軍に合戦を挑む武士もいたくらいであった。畿内では山門の僧兵が、京都に還都しなければ山城・近江を占領するといって朝廷を脅すなど不穏な動きも見られたので、早急に帰洛する必要も生じた。10月には富士川において甲斐武田氏の軍と一戦も交えることなく平氏は敗走した。両名は京都への道を近江路にとろうとしたが山門の僧兵がこれを阻もうとしているとの風説もあって、伊勢路経由で帰京する始末であった。平氏は難局を切り抜けるためついに還都の方針を固め、11月には天皇は京都に戻った。

平氏打倒の頼朝の挙兵の影響は畿内・西国にも広まった。とりわけ畿内とみてもおかしくない近江では、山門の僧のうち堂衆らが中心となって反平氏の動きを起こした。また10月20日ころ、山下義経・甲賀入道らの近江源氏も蜂起、美濃源氏らとともに京都に攻め入ろうとした。近江における反平氏の動きは、東海・東山・北陸三道への喉元を押さえられることになりかねないため、福原から戻った平氏はただちに反撃に転じた。

1180年12月1日、伊賀平氏の平田家継は、伊賀・伊勢の軍を率いて近江に入り、源氏方の城(手島冠者や柏木入道義兼などの近江源氏)を攻略した。2日には大規模な追討軍が組織され、知盛は近江(勢多の野路で山本兵衛尉義経や入道義兼らを破る)、資盛は伊賀、清綱は伊勢から並び進み、予定では駿河まで侵攻することになっていた。 

そのころ南都興福寺の「大衆」が蜂起し、僧兵たちを京都に進発させる動きがあった。これが清盛による興福寺・東大寺焼き討ちに発展し、園城寺も焼き討ちに合い、平氏は仏敵とする激しい反感が広まり、清盛や高倉上皇のその後の死は仏の祟りであると噂された。

平氏は延暦寺・園城寺が近江源氏と結ぶのを押さえようとしていた。延暦寺内部は、平氏に好意的な座主派、近江源氏に同調しようとする堂衆派、それに中立派と三分されていた。園城寺は相変わらず源氏に好意的で、これに延暦寺内の源氏派も合流して園城寺に立て籠もり、知盛ら追討軍の背後を脅かした。追討軍は、一手を園城寺方向に差し向け山科での戦闘で衆徒を破り(12月10日)、翌日、園城寺に放火、金堂などを若干残すのみの大火となった。興福寺や東大寺は、奈良に出兵した平重衡により12月28日、焼き討ちにされた。

背後で園城寺攻めが行われる一方、最前線を行く知盛は、13日には馬渕城(近江八幡)を攻略、16日には山下(本)城を攻めている。この城は山本義経の根拠地の湖北町にあったとされる。翌年(1181)正月には、追討軍は美濃に入って源光長の城を攻めており、近江はこの頃までに鎮定されたものと思われる。

追討軍はさらに東進を続けて美濃・尾張辺りまで進出し、知盛の病気で重衡が引継ぎ、三月には美濃の墨俣(すのまた)で源行家を破った。この年は凶作で兵糧調達難があった中、ともかく美濃までは鎮圧したのだからこの時の東征は一応成果があったといえる。

同じ1181年、清盛は五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波等の国々に総官を置き、総指揮に宗盛を任じた。これは宣旨によりなされたので、これら地域での軍政指揮権と兵士・兵糧徴達権を公式に獲得したことになり、軍事独裁に進んだといえる。

1183年(寿永二)になり戦局はにわかに動き出した。北陸道にあった木曽義仲が京都を目指して軍事行動を開始したためである。北陸への出兵のため平氏は山城・大和などで徴兵を開始したが難航した。

6.園城寺と新羅源氏

園城寺と源氏の関係は深い。1184年、源平の合戦の最中に園城寺が頼朝に宛てた訴状には次のくだりがみえる。「貴下(頼朝)の先祖伊予入道(頼義)、(後冷泉天皇の)詔命を蒙り承りて、(安倍)貞任を征伐するの刻(注:前九年の役 1051年)、まづ園城の仁祠に詣で、殊に新羅の霊社に祈る。その効験に依て、かの夷テキを伏し、梟首を洛中に伝え虎威を関東に施せり」 この訴状で園城寺は頼朝に、平家から没収されていた近江・若狭の領地の寄進を求め頼朝はこれに応じた。

頼義は、前九年の役後、願文通り子息の快誉を園城寺の学僧とした。快誉は石清水八幡宮を勧請して園城寺の南側の鎮護とした。頼義はその後、大津市の錦織庄に草堂を営んで住み、1065年、錦織山(宇佐山)に八幡宮を勧請して園城寺の北の鎮護とし水田も寄進した。(これら寺伝の信憑性には若干問題があるが、すべてを捨て去ることも誤りである。)

頼義の嫡子義家にも園城寺と関連した伝説がある。義家の娘は盲目であったが寺僧行観の加持で治った。感激した義家は養子の錦織八郎を僧行観の弟子とし、園城寺を氏寺としたという。頼義には四子あり、その一人は上記の快誉であるが、一人は石清水八幡宮に捧げて八幡太郎義家と号し、一人は賀茂社に奉じて賀茂次郎義綱と名乗り、一人は園城寺の新羅明神の氏人として新羅三郎義光と号したという。(注:義光に始まる一統を新羅源氏と著者は名づける。)

奥羽で清原氏の同族争いから後三年の役が起きたが、義家はこれを鎮定した。義家の武名は高まり諸国の武士・豪族は田畑を寄進した。義家は彼等を組織して武家の棟梁としての地位を固めた。

義家の嫡男、義親は対馬の守で在任中に犯した罪で隠岐に流罪となり、その後も出雲の官人を殺し官物を奪ったりした。源氏の隆盛を喜ばなかった白河法皇は、平正盛に命じて義親を討たせた(1108)。これを契機に源氏の衰退が始まり、平氏が台頭しはじめた。

源氏衰退の一因にとしては、一族の内紛もあった。1091年、郎党の所領争いから義家と弟義綱(加茂次郎義綱)とが合戦に及ぼうとしたことがあった。義家を牽制しようとした朝廷や貴族が、義綱を利用した面もある。

義家の死後、源氏の内紛は更に深刻になった。1109年の内紛では、義綱は怒って京を去り近江甲賀郡に走った。義綱は、朝命に背き京外に赴いた罪を問われ、朝廷が派遣した追捕使に義綱は降伏したが、朝廷は義綱を佐渡に流した。

兄義家の後を継ぐべき源氏の嫡子が義忠に決まると(真偽は不明)弟の新羅三郎義光はこれをねたみ、郎党に命じて義忠を捕らえ、園城寺の弟の僧快誉の手助けで義忠を生き埋めにしたとの伝説もある。義光には、仏道修行に励み寄進などの善行を積んだとの伝説もあるが、いずれも真偽のほどは不明である。義光の後裔は主として近江で繁栄し、山本、柏木、錦織、箕浦などの諸氏となった。

7.源為義の悲劇

時代は下がって、義家の直系の孫(義親の子)である為義が嫡流の地位を固めてまもなく、平氏では正盛に代わってその子忠盛が登場する。為義は検非違使となった程度で振るわなかったのに比し、同年代の忠盛は、白河・鳥羽両法皇の寵を得て諸国司を歴任し、瀬戸内の海賊を鎮圧し、日宋貿易で富を築くなど、目ざましく活躍した。清盛は忠盛の後をついで平氏繁栄を続けた。源氏側では、為義の長男の義朝が時の権力者鳥羽法皇に近づいたものの、摂関家と因縁の深い為義とは不和となり、為義は子の為朝(義朝とは兄弟)の乱行が原因で解官されてしまう有様であった。

「兵範記」によれば為義は次のごとき悲運の末路をたどった。保元の乱(1156)に際して為義は崇徳上皇方に付くが敗色濃厚となり、時の天台座主は為義が大津辺りに潜んでいる旨通報、子の義朝が追捕に赴いたが見つからず空しく帰洛した。為義は諸所を流浪の末、比叡山の横川辺りで出家し、義朝のもとに自首してきた。義朝は父の命を救おうとしたが許されず、朝命に従い京都の船岡山辺りで為義を処刑した。

同じ話が「保元物語」によれば次のように記されている。清盛が為義を追って園城寺を捜索したが見つからず、東坂本(今の坂本、西坂本は京都側)に赴いたところ延暦寺東塔の「大衆」の強硬な抵抗に遭って引き返し、帰路、大津の民家を焼き払った。大津の住民が為義を船に乗せ東近江の葦浦に送ったという噂があったからである。しかしそれは誤報であり、実は為義は東坂本の三河三郎大夫近末(一説に三河尻五郎大夫景俊)のもとに潜んでいた。園城寺を経て東国に逃れようとしたが箕浦で病気になり、追撃の兵にも襲われたため、東国行きを断念し、東坂本の三郎大夫のもとに戻り比叡に登って出家したとされている。

平治の乱で義朝は、六波羅の平氏館に押し寄せて敗れ、加茂の河原を北に逃れた。大原の千束が崖では比叡西塔の僧兵が待ち構えていたが、義朝の一行はこれを突破した。龍華越(りゅうげごえ)では同じ比叡山横川の法師達に襲われ、叔父の義高(義隆、実は父義家の子)は討ち死した。義朝は堅田から舟で湖を渡ろうとしたが激しい風波で舟が得られず、勢多に戻りそこから東国に落ちていったものの、尾張の野間で旧臣に謀殺された。道中で父とはぐれた頼朝は、平氏方に捕らわれたが一命を救われ伊豆に流された。

8.以仁王と頼政

治承四年(1180)5月15日に始まる以仁王の挙兵に際しては園城寺が深く関わった。挙兵を察知した平氏は、三条高倉の以仁王邸に討手を差し向けたが、頼政の急報で事前にこれを知った王は、かろうじて園城寺に逃れた。高倉上皇の命を受けた園城寺の僧綱(そうごう)らは、以仁王の引渡しを僧徒に命じたが彼等はきかず、かえって延暦寺・興福寺に支援を求めた。21日、平宗盛らが園城寺攻めに向かったが、討手の大将の一人にはまだ頼政も含まれていた。翌22日、頼政は自邸に火を放って園城寺に赴き以仁王に合流した。

延暦寺の天台座主明雲は清盛が出家した折の師僧でもあり、平氏は従来から延暦寺に対し懐柔工作をしていたので、平氏びいきであった。円城寺とはこれまでも山門と寺門の対立の経緯もあり、明雲はむしろ園城寺攻めを企てていた。興福寺は藤原氏の氏寺であることから、平氏と親しい関白近衛基通は、園城寺を助けないようにと僧徒を説得する使者を興福寺に送ったが成功せず、使者は逆に僧徒に辱められる始末であった。

延暦寺は今にも園城寺に攻めてきそうである。興福寺からの援軍は遅れる。園城寺内の分派に対する平氏からの切り崩しもある。長引いては不利と判断した頼政は六波羅を夜討ちしようとしたが、園城寺内の平氏派が時間稼ぎの長談義の挙に出たため出撃に失敗した。

もはや園城寺を保ちがたいとみた以仁王と頼政は、興福寺を頼って奈良に逃れようとしたが、平氏の追撃を受け26日、頼政は宇治の平等院で、以仁王は光明山の鳥居前で戦死した。園城寺の衆徒の中には、以仁王に従って奈良に向かい戦死したものもいたし、園城寺にとどまって抗戦を続けようとしたものもいたが、結局は瓦解してしまった。「平家物語」では、この時、平氏が園城寺を焼き討ちにしたように記されているがこれは虚構であり、焼かれたのは12月である。

園城寺に対する追求は厳しく、僧綱(高僧たち)らは罷免、末寺・荘園や寺僧の私領は没収、園城寺長吏の円恵法親王(以仁王の弟)は四天王寺別当職を兼ねていたのを解かれ、同職は天台座主明雲に与えられた。21日には僧綱ら13人が検非違使に引き渡された。

9.北陸での争乱

治承・寿永期の北陸での争乱(1180-83)については、誤った通説が流布されてきた(注:著者の上横手氏の見解)。原因は、「吾妻鏡」「平家物語」など後代に編纂された書物にみられる多くの誤った記述を、十分な検証なしに学者が受け入れてきたからである。

1180年(治承四)の源平争乱で、11月に近江で山本義経・柏木義兼兄弟(義朝の弟新羅三郎義光の三代後裔)らが蜂起すると、平氏は知盛らの東国追討使を発進させた。従来通説では、この軍の重要な一員で副将軍だった惟盛が、越前の国の反乱を収める為12月22日に北陸に向ったとされてきた。しかし、別の史書によれば、惟盛は23日から25日にかけて美濃・尾張に向っており、1181年(養和元)三月には上記の通り平氏は美濃の墨俣の会戦で源行家などの源氏勢に圧勝し、更に三河まで攻め込んだあと、清盛の死、兵糧米の不足などで京都に引き上げた。惟盛がこの作戦に参加したのは明らか(「吾妻鏡」などの諸資料)であり、越前侵攻は誤りということになる。

1181年6月には、越後の城助職(すけもと)が平氏の命令で信濃に侵入したが、木曽党・佐久党・甲斐武田党の連合に惨敗。これが北陸全体の不安定化につながった。越後では助職が襲われたし、7月には越中・加賀で国人(地方豪族)が蜂起し、これが越前にも波及、平教盛の知行国である能登では息子の教経が国守になっていたが、国司の郎従が惨殺され目代は都に逃げ帰るありさまであった。

北陸は京の経済を支えており、平氏の知行国も少なくない。朝廷や平氏の対応は敏速で、平経正・通盛が追討使として派遣された。「吾妻鏡」は、木曽冠者(義仲)を討ちに行ったとしているが、他の諸資料には義仲は一切登場せず、討つ相手は越中・加賀などの国人(地方豪族)であった。通盛は加賀の国人たちが越前まで南下して起きた合戦で敗れ、九月には敦賀に退却した。同じ九月に行盛・忠度(ただのり)らが再度北陸に遠征しているが苦戦し、その後しばらくは北陸遠征は行われなくなった。北陸は完全に国人たちの支配化におかれ、若狭や近江も国人による公領略奪の危機に瀕した。1182年都では、安徳天皇即位の際に行われるべきであったが遷延されていた大嘗会(だいじょうえ)挙式が、検討中の北陸遠征に優先された。

10.義仲登場

たびたび延期されて来た追討軍が、平惟盛の総指揮のもと、東山・北陸方面に十万騎の大軍で派遣されたのは1183年(寿永二)。「平家物語」には、義仲が五万騎を従えて東山・北陸両道を京へ攻め上る勢いと伝えられるとあるが、この年、義仲には都に攻め上る気配はまったくなかった。追討軍派遣の宣旨には「源頼朝・同信義(武田信義)ら東国・北陸を虜掠す。前内大臣(宗盛)に仰せて、追討せしむべし」とされている。義仲は信濃・越後を支配する地方勢力に過ぎず、この段階では朝廷や平氏の眼中にはなかったと言うべきである。

この折、副将軍の一人として参加していた平経正(清盛の弟経盛の長男)は軍が海津・塩津にあった際、竹生島に渡島、弁財天に戦勝祈願をしたと平家物語は記す。詩歌管弦に長じ、とりわけ琵琶の名手として聞こえた経正であり、僧達が手渡す琵琶を取り上げ上玄石上の秘曲を弾じたところ、弁財天は感応にたえず経正の袖の上に白竜の形で現われたという。

謡曲「竹生島」は経正の故事を題材としているとされる。

「所は海の上。国は近江の江に近き。山々の春なれや。
 花はさながら白雪の。降るか残るか時知らぬ。
 山は都の富士(比叡山のこと)なれや。なほ冴えかえる春の日に。
 比良の嶺颪(おろし)吹くとても。沖漕ぐ舟はよもつきじ。
 旅の習ひの思わずも。雲居の外(よそ)に見し人も
 同じ舟に馴衣。浦を隔てて行く程に。
 竹生島も見えたりや。
 緑樹影沈んで魚木に上る景色あり(緑樹の影が湖面に映り魚が木に登るかのようだ)。
 月海上に浮かんでは兎も浪を奔るか(月影が湖面に浮かび月面の兎が浪の上で飛び跳ねているようだ)。
 面白の島の景色や」

因みに平経正は幼少の頃から仁和寺御室にあがっていて時の法親王に大変愛された人物で、琵琶の名手としても有名であった。当時、唐から、三つの琵琶の名器が本朝にもたらされ[獅子丸、玄象、青山(せいざん)]その中の青山を法親王から賜っていた。平家都落ちに際して自分が持っていてはいたずらに田舎の塵になさん、との恐れから途上、仁和寺に馳せ参じて、かの青山を法親王にお返し申し上げたとの故事がある。

経正同様、このとき北陸追討軍に加わっていた薩摩守忠度も、都落ちに際して和歌の師であった藤原俊成の家に立ち寄り「千載集の編纂をされておられると承りましたが、もし一つでも採用してもよいと思われるものがありましたら・・」と鎧の袖から自作の詠歌集を俊成に渡して「後は思い残すことなし」と都落ちしていったという。経正といい、忠度といい実に奥ゆかしい振る舞い。源氏から言わせれば平家公達の軟弱さよ、となるが、文武両道に秀でた好例と言える。

法親王とお別れの挨拶をした時の経正の和歌
「呉竹の筧の水はかはれども なほすみあかぬ宮のうちかな」
俊成に手渡した詠歌集の中から千載集に採用された忠度の和歌
「ささ波や 志賀の都はあれにしを 昔ながら(長等山の長等にかけている)の山桜かな」

追討軍は、越前・加賀で国人たちを破り越中に入ったが、そこで致命的な敗北を喫した。「玉葉」には、官軍の先鋒が勢いに乗って五月、越中に入り砺波山に陣取った。信濃を出て越後の国府にあった木曽義仲は叔父十郎蔵人行家などの源氏とともに平氏の軍勢を越中に迎え撃ち、11日には夜襲をかけて官軍を倶利伽羅峠の断崖から追い落とし、過半が死んだと記されている。これが有名な砺波山(となみやま)の戦いである。京都の記録に義仲の名が記されたのはこれが最初である。越中に入った追討軍は義仲の支配圏を侵し、眠っていた義仲を起こしてしまったといえる。

越前の国府に入った義仲は六月、延暦寺に味方するよう書状を送り, 延暦寺は末寺・荘園の安堵を条件に義仲の要請を受け入れ、義仲軍は七月、近江に入った。平氏方も、日吉社・延暦寺を氏社、氏寺とする意向を伝えるなど延暦寺に工作したが成功しなかった。

義仲らの源氏の進攻を迎え撃つため七月、平資盛らは宇治から近江に向かい、知盛・重衡らは山科から勢多に向った。しかし近江路を南下する義仲らは勢多には行かず、矢橋辺りから小船で東坂本(当時、比叡山の大津側を東坂本といった)に渡り、比叡山に登って惣持院に陣取った。都を窺っていたのは義仲だけではなかった。源行家は伊賀・大和から、足利義清は丹波から、多田行綱は摂津から都に迫っていた。諸方面に軍を派遣していた平氏は作戦上、全軍を一所に集めようと都に呼び戻した。知盛らは粟津に泊した際、義仲加勢のため比叡山に向う加賀国人の軍勢と遭遇し合戦となったが敗れて都に戻った。

7月24日夜、平氏はもはや都を守れないと判断し都落ちの方針を決定。後白河法皇は深夜密かに院御所を脱して比叡山の坊に入ったため、平氏は法皇を伴うことなく都落ちをした。法皇と義仲は同じ東塔の辺りにいながら正式の接触はなかったようである。法皇はこの時、近江源氏と連絡をとったとされるが、これは法皇が京に戻る際の護衛を勤めた錦織冠者義高(山本義経の子)らとであろう。錦織の源氏は代々、院との関係が深かった模様。

山本義経は1180年、勢多で蜂起し知盛に敗れた後、鎌倉に逃れ頼朝を頼ったが、この頃突如京都に現われている。義仲入京直後、京中守備の分担が定められた12名の武将に山本義経は名を連ねているから、頼朝から離れ最後まで義仲との忠実な盟友関係を通したとみられる。

義仲は叡山にいたのだから西坂本(京都側)或いは東坂本を経て大関越(逢坂山)、小関越で京に入るのが近道なのに、わざわざ舟で琵琶湖東岸に渡り、鏡・篠原・野洲河原に陣取る味方を加えたうえで、勢多を経て7月28日入京した。同日、行家も宇治から入京し、法皇は両名を引見して平氏追討を命じている。

入京した義仲は後白河法皇や貴族と対立し、法皇は密かに頼朝と連携、義仲を抑えようとした。また法皇は義仲の推す以仁王の子の北陸宮を退け、神器のないまま高倉の第四皇子尊成(たかなり)親王を立てて後鳥羽天皇としたので、両者の関係は険悪になった。義仲が備中水島で平氏に大敗して京に戻ったその秋(1183年11月)、義仲は法皇を連れて北陸に逃れようとしたが法皇は拒絶、逆に京からの退去を命じられた。怒った義仲は、法皇が院御所(法住寺殿)に集めた兵を狂ったように殺戮し法皇を捕らえ幽閉した。法皇方に加わっていた延暦寺座主明雲や園城寺長吏の円恵法親王はこの時、義仲軍に討たれた。

飢饉にあえぐ京に入った義仲軍は兵糧米の不足に苦しみ、もともと各地の蜂起勢力を糾合した混成軍で構想や展望もないまま統制を欠いていたので、狼藉の限りを尽くした後、略奪するものがなくなると多くの軍兵は勝手に京都を去っていく始末であった。

義仲は法皇の近臣を解任し延暦寺座主には山門の反対を押し切り俊尭を任じた。法皇が幽閉されたのを知った頼朝は、三河まで進出して待機していた義経・範頼を上洛させ義仲を討たせた。1184年1月、義経らは京に向って近江に入り、迎撃した義仲軍は敗走した。19日義仲は、今井兼平に勢多を、志田義広に宇治をそれぞれ守らせ、自らは院御所六条殿を守った。20日範頼は勢多、義経は宇治を攻め、宇治の義経軍がまず京に入った。義仲は法皇を伴って逃げようとしたが、義経が院御所に急迫したためなすところなく都を逃れた。

勢多を攻めた範頼勢は、南の供御瀬(くごのせ)を渡って勢多川右岸を北上、国分寺に陣をとる今井兼平と戦闘となったが兼平は次第に追い詰められて北に逃れた。義仲と兼平は幼児の頃からの竹馬の友であり、互いに相手を案じ義仲は勢多に、兼平は都に向っていたが、打出の浜で両者は出会い粟津で討ち死した。義仲の首を得た者については諸説あるが、いずれにせよ京から義仲を追った義経の配下の者である。

11.平氏滅亡

義仲が都に迫った1183年7月25日、平家は都を落ち福原に行き、清盛の墓に詣で屋敷に火を放ったうえで、海路、大宰府に向った。8月26日大宰府に着いたが二ヶ月と持たなかった。後白河法皇の側近である藤原頼輔の指示で、頼輔の知行国豊後の緒方惟義が大宰府を襲った。平氏は海上に逃れ、結局、讃岐の屋島に落ち着き、これ以後は四国が源平合戦の中心的舞台となった。

義仲は都に入って後、平家の追討に向うが備中水島(倉敷市)などで平家方に負ける。都では後白河法皇と頼朝の間で交渉が進み、義仲は陥れられそうになったのであわてて都に帰った。

義仲と頼朝が争っている間に平家方はしだいに勢力を回復し、1184年正月には福原に戻った。義仲は頼朝と戦うため平家と和平交渉を進めたが決裂した。義経は迅速に行動した。義仲を粟津に討った後、一の谷などで攻め勝ち平家を福原から屋島に追い払った。源氏方には舟がないためにこのあと1年間の休戦期間が生じた。この間、頼朝は範頼を大将軍にして山陽道・九州の制圧に成功した。

義経は摂津から阿波に6時間で渡り屋島を急襲、あわてた平氏は再び海上に逃れた。義経の屋島攻略と四国制圧により、それまで日和見をしていた瀬戸内海の水軍勢が一挙に源氏方に付いた。平氏が屋島という拠点を失った段階で源平の争乱は実質的に終わったのであり、壇ノ浦の合戦は駄目押しに過ぎなかったといえる。 (了)


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