市民派町長の情熱と奮闘(関 治夫 前甲西町長との対談 2003.11)

滋賀県の南東部で旧東海道沿いに、甲西(こうせい)という人口4万強の町があります。もともとはのどかな田園だったのですが、おりからの高度成長の波に乗り、他府県からの人口移入をともない急速に発展した町です。

この甲西町に平成11年に政治的異変が起こりました。仕事の関係で県外から移住された関治夫さん(元日本IBM野洲工場勤務)が、ド素人選挙で町長に選ばれたのです。それから1期4年、関町長の奮闘が続きました。関さんは、去る4月の町長選挙では落選、町のため正しいことをしてきたのになぜ?といった思いや、「日本一住みごたえのある町」を求めての消しがたい情熱の火だねのなかで、再起を期しておられる今日この頃です。

そんな11月のある日、本サイトお守役の七尾は、関さんに対談を申し入れました。かねてより関さんの考え方や仕事ぶりは、今、全国津々浦々で繰り広げられている「町や村からの改革」にとって、きっと他山の石となる貴重な教材ではないかとの思いがあったからです。関さんの成功と失敗の軌跡を、全国の志ある人々に向けて発信すべきだとの願いを快く受け入れてくださり、さる11月25日、この対談が行なわれたわけです。

関さん個人にとっては将来、政治的に不利になりうるようなこともいとわず、たいへん率直にお話しいただいたとの印象です。対談は、関さんを政治的に称揚しようとか、たまたま反対の立場にあった人たちを誹謗しようとかの考えに出るものでは一切ありません。関さんご夫妻は、これまでずっとやってこられた障害者を助けるボランティア活動を今も続けておられ、また、甲西をよりよくするための有志との諸活動も再開されたようで、情熱の火種は消えていないとの確信を持ちました。

七尾 清彦

1.なぜ町長に?

[かねてより保守王国とすら言われたこの滋賀で、どうして「よそ者」の関さんが町長選に打って出るということになったのですか?]

「何かしなければいけない。このままではいけない」と言ったエもいわれぬ、心の底から湧き上がってくる一種の切迫感と言いますか、そんなものに押されて出馬したということでしょうね。今回、落選して時間ができ心理学なんぞに興味を持ち始めたのですが、“何かわからないが人を突き動かすエネルギー”といった意味で学者は「Id(イド)」と呼んでるようですが、そういうものを感じたのです。

[草の根的な住民エネルギーの高まりで改革派が選ばれる場合、多くの場合は、住民が激しい怒りを感じる事件めいたものが起こりそれが争点となっていることが多いですが、甲西町の場合は目立った事件もなかったように思うのですけれど? 事件が収まれば熱が冷め、また旧態依然の政治や行政に戻ることもしばしばのようですから、お伺いするのですが....]

たしかに甲西の場合は、そのような事件めいたものは無かったと思います。3期つとめられた当時の町長に特に大きな失政があったとも思いません。

ただ甲西の場合は具体的政策問題というよりも、「在所(ざいしょ)」と呼ばれる古くからのコミュニティと、他府県からの「よそ者」「移入者」との間に生まれつつあった違和感、猜疑心といったものが、互いの心の中で大きな比重を占めていたように思います。こうした心理的な問題が、じわじわとガスとして溜まってきていたのです。そうした場合、些細なことがきっかけで火がついてしまうということがよくあります。甲西の場合はそれにあたると思います。

毎年行なわれてきている町の運動会で、地区対抗のリレー競争が行なわれました。新開地のチームがバトンタッチのゾーンからはみ出してリレーを行なったのはズルイとのクレームが、古い地区の人たちからつきました。やり取りが熱を帯びるにつれ、新開地の生徒や父兄は、誰言うともなく三々五々運動会場を立ち去り、運動会は駄目になってしまったのです。翌日、町の長老と目される人たちがやってきて「なんというアホなことをしたんか。せっかくの運動会が台無しやないか」と厳しいお叱りの言葉でした。幸い、運動会事件はボヤ程度ですみましたが、在所や新開地にこの体験は鮮明に記憶として残りました。

当時、新開地に住み着いた各家庭は、皆まだ若くて子育ての最中でした。私たち夫婦も当時、小1と3歳の子供を抱えていました。子を持つ親であればみんな同じだと思いますが、できるだけ良い環境で子供が育っていってほしいと願いますよね。親同士、にらみ合っているような社会では、子供同士も学校でにらみ合いになりかねません。誰も口には出しませんが、何とかしなければという切迫した思いを持っていたのだと思います。同じ思いは在所の人たちの間にも程度の差こそあれあったと思います。

こういった各家庭の思いが、やがて地域全体を良くして行かなければという気持ちに発展し、4年前、私を町長に選び出してくれたのだと思っています。

[その時の選挙はどんな具合だったのですか?]

全くのド素人集団による選挙活動でした。当時、あらゆる政党からアプローチがありましたが、そういった既成政党のワクなど無いほうが良いというのがみんなの判断でした。今でこそ、人口が4万3千ほどになりましたが、町が発足した昭和34年頃は1万そこそこの小さなところですから、ムラ意識は当然ながら強く、そのコインの裏側である排他性にも激しいものがあったわけです。目指すはこの排他性を薄め、よそ者も一緒になって仲良く暮らせる社会を創り出そうということにあったわけですから、政党が絡んだりしないほうが良かったのです。既成政党の政治組織の支援は一切なしに「ド素人選挙」をやったことが私たちの誇りです。

[在所の人たちと移入者との溝は埋まっていきそうですか。お近くの甲南町などでは、似たような不信感が新旧住民間で相当長引いているように聞いていますが....]

必ず溶け合っていくと考えています。私の住む菩提寺地区の在所と、「みどりの村」と名づけられた移入者の住宅地の関係でお話しましょう。その後この地区に新しく小学校が創立されたのですが、PTAの会長さんは最初の何年かは在所の人がつとめました。そのうちに、4年目位から、みどりの村居住者の中から役員が任命され、やがて会長も生まれるということになったのです。お互いの信頼感が生まれてこないとこのようなことにはなりませんから、相当の進歩です。

運動会総引き揚げ事件に見られたような在所とよそ者の間の溝は今も残ってはいますが、当時から比べると相当、解けてきたことも事実です。4年半前の町長選に私が立候補した時すでに、私を押し上げてくれる改革の声は菩提寺地区全体の合唱のようにわたしには聞こえてきていました。

2.市民派町長としての奮闘

[当時、町の行政ということからは、何が大きなイシューだったのですか?]

90年代初めくらいまでは、甲西町は全国でも屈指の群を抜いた財政優良自治体だったのです。高度成長で地元に進出した企業からも、そこで働く住民からも毎年どんどん税収が入ってきたのですから。

やがてバブルがはじけ苦しい時期がやってきました。企業からの納税が2000年代にはなんと三分の一まで落ち込んでしまいました。企業で働く住民の給与もダウンするので住民税歳入も落ち込みました。当時、私は町会議員でしたが、お付き合いする役場の職員も一種の諦めの雰囲気にとらわれなんとなく落ち込んでいるような印象を受けました。

歳入が落ち込む一方、道路やいわゆるハコモノ建設の公共事業はなかなか縮小されず、民生に直結する費目の予算にそのしわ寄せが行きました。町全体に広がりつつあった諦めのムードを何とかして怒りに変えていくことができないか、そこに政治の役割があるのではないか、といったことを私や支持者たちは真剣に議論し始めていたのです。

(1)ゆらら温泉

[地元で掘ったら温泉が湧き出し、これを軸にして大リゾートにしようとの開発話があったようですね。]

そうです。温泉を掘り当てること自体は前町長の時代に済んでいました。問題はこの温泉をどのように利用するかでした。巨費を投じて大リゾート施設を造り観光開発にもっていくか、それとも住民や近隣の方の健康のための憩いの場所とするかの選択でした。30億円も投じて大規模なハコモノを造ることにわたしは反対し抑えました。

また温泉の活用は徹底した民活でいこうと考え、西武(株)の大津や大阪での事業経験もあるビジネスマンに事務局長になってもらい「好きにやってくれればいい。ただし財政補助は期待しないでほしい。入湯客に喜んで来てもらえるようにしてほしい」と言って事業を預けました。彼は公募により来てもらった人です。役場を退職した人を充てていたら、多分、ビジネスの経験不足で駄目だったでしょう。

おかげでこの“ゆらら温泉”は、償却費を計算に入れないいわゆる「行政ベース」で見れば、人件費や燃料代などの諸経費をカバーするところまできており、平成13年には入浴者が年間50万人を突破しました。最近では、温泉の玄関ロビーで音楽祭りなども催されたりしています。

(3)十二坊道路

[以前お会いしたとき関さんは、地元に平安時代から残る古刹である十二坊に、ゆらら温泉への取り付け道路から分岐する道路の工事を、中止する事にしましたよと感慨深げに話しておられましたね。これも土建業者が絡む話であり相当な抵抗があったのでしょうね。]

そのとおりです。すでに予算化されていたものを停めるのですから、それは大変でした。十二坊にいたる道路は10億円もかかるのです。それよりも、児童が通学に使う危険な道路を安全にするための施策にお金をまわす方が、はるかに必要度が高いと訴え奮闘しました。放っておけば、道路やハコモノで町の予算に年50億円もの重荷が負いかぶさってくる状況でした。そんなものにお金を使うよりも、福祉や教育に充当するほうがはるかに有益と考えました。

(3)町立図書館

[こう言えばお叱りを受けるかもしれませんが、こちらの町立図書館は人口4万の町にしては立派なものですね。わたしも幾度か訪れましたが、大変開放的で利用しやすく感心しています。残念なのは週の内、月・火と二日も休み、それに年末、祭日も休館でしょう。これは改善できないのでしょうか。]

指摘された点は確かに課題です。ただ現在の9人の職員は、それはもう頭が下がるほどに献身的に良くやってくれており、今すぐに週休一日にしろとは言いにくいのも事実です。職員は120%の力を発揮して仕事をこなしてくれているのです。現に平成11年には、全国図書館大会から優秀図書館表彰を受けたほどです。単に司書の仕事をやるのみならず、頼めば調査・情報収集もやってくれるのです。9人のスタッフは全国から選りすぐったエキスパートたちでそれぞれ自負を持って業務に励んでくれています。

[それにしてもこの図書館の貸し出し件数はすごいですね。発足以来4年で延べ100万冊、7年で200万冊突破と言うのですから。人口4万の町で赤ん坊も入れて一人年間10−11冊は家へ持ち帰って読んでいる訳ですね。]

もともとこの小さな町には県の「巡回草の根図書」が時おり来てくれるだけでした。何とか新しいイメージの図書館を作りたいとの母親たちの熱い願いが、14年前の図書館発足につながりその後の発展を支えてきているのです。当時、母親たちは30−40才台だったと思います。こういう母親が、まさに七尾さんが書かれた本の「ひとりひとりのルネッサンス」を地で行ったわけです。子供たちや学生が自分の勉強部屋にも使えるような図書館にしたこと、同じフロアーで家族が一緒に本を読めるように児童書も大人の本も同じフロアーに置いたことなどに、お母さん方の願いがこめられています。

当時、町村立の図書館の多くは、校長先生を辞めた人などを館長に迎えていました。中にはいい人もいたでしょうが多くの場合は、眠ったような図書館になっていました。わたしたちはベストの館長を得たいと思い、わざわざ北海道から梅沢さんというその道で評判の方に来ていただきました。梅沢さんは現在は滋賀県立図書館の館長をしておられます。

図書館に力を入れることについても、在所の人たちと新開地の住民たちとの間には微妙な温度差がありました。「なんで今、図書館?」という疑問の声が在所のほうから聞こえてきました。わたしたちの願いは、在所とよそ者との間のギャップを埋めていくことにあります。そのためには教育が最終的な鍵を握っています。成人の生涯教育も含めた意味で図書館の果たしてくれる役割は大きいはずだと考えたわけです。

今では町立図書館自らが巡回図書館事業もやっており、時には図書館ホールで音楽会もやるのです。まだまだ改善の余地はありますがみんながんばっています。

(4)同和対策費の廃止

[そういえば関さんの奥様は気さくだと、すこぶる評判の方のようですね。この図書館運動にも精を出され、また目の不自由な人たちを助ける会の活動もされたりで、感謝している人がたくさんおられるようです。ご主人の方は立場上やむをえない面もあるのでしょうが、たとえば自分の親衛隊グループの人たちの意見には耳を傾けるが、立場の違う人たちの意見はなかなか聴かないといった不満も耳にしましたが...。

ところで、同和問題にも果敢に取り組まれたようですね。同和対策として長年、計上されてきた予算を、町民一般を対象とした費目に切り替えられたようですが...]

これは大変でした。なにせ夜の9時、10時でもやって来て延々抗議されるのですから。被差別部落の人たちには固定資産税を10分の4に減額するとの措置が長年続けられ、今や、差別を再生産するのみならず、被差別部落の人たちの生活態度も蝕むに至っていると判断した次第です。

14,000所帯の甲西町で200所帯にかかわる問題ですが、町民ひとりひとりの心をひとつの方向に向けていくうえでは、もう無くすべき予算措置だと思ったのです。これまで2年かけて減額し来年からはゼロになるはずです。

(5)産廃問題

[誘致した企業の工場立地を多く抱える甲西町では、企業関係の問題も多いでしょうね?]

はい。とりわけバブルの崩壊後は企業も苦しくなり、色々な問題が出てきています。ある企業がリストラの一環として所有地の一部を売却しようとしていました。買い取る相手がタイヤ業者だとわかりわたしは緊張しました。これは町長選挙の最中の去る3月に判ったのです。わたしは県に働きかけ、県もこの取引を中止させる方向に傾いてくれました。わたしは取引を止めるように働きかけ、現在も停まっているはずです。

ここで問題となったのは、使用済みタイヤは廃棄物とみるべきか、それともそれを原料にガソリンなどに再生する原材料なのかという点です。廃棄物なら町長にかなりの発言権があります。原材料にすぎないということなら、タイヤ業者との間で公害防止協定を結ぶ程度の力しかありません。

甲西にはすでに立地済みの廃棄物処理工場もあります。この工場は施設を拡張したがっているのですが、わたしも県も反対しました。問題は国レベルに上がり、結局、国は、県や町が反対するのは越権行為だと裁定し工場は拡張されてしまいました。残念です。

(6)役場職員との関係

[奮戦する関町長さんは、町役場の職員には厳しかったようですね?]

そうでしたね。職員には常々、町民が喜び評価してくれる行政を心がけるようにと指示していました。町民のために奉仕しているかどうかといったこと以前に、誠意を込めた仕事をやるということは職員自身、みずからの人間性を鍛えていることになるのだから、自分のためにもがんばってほしいと言いました。将来、仮に役場を辞めても、どこへ行ってもやりぬけるような人材に育っていってくれれば、長い目で見れば甲西町にとってプラスだとの信念もありました。

町の人たちに納税意識を高めてもらうために、6人のスタッフからなる納税対策室を作りました。近所の誰々さんはちゃんと納税していないようだということになれば、周りの人たちもまじめに納税することが馬鹿らしくなるでしょう。こういう話は簡単に広まってしまいます。6人のスタッフは手分けして、毎晩、町民宅を戸別訪問し納税を頼んで回ってくれました。とりわけこういう仕事には、女性職員がたいへん強いということを発見しました。男性職員だとどうしても常識慣れしているとでもいうか、普段はあまり強いことを口にしないのですが、女性の場合は「納税を怠るということは、あなた自身をダメにしていくことと同じなのですよ」とズバリと言う力があるのですね。(笑い)

(7)町民はお客様

[町役場の提供する行政サービスの質や住民の満足度を、客観的なISO(国際標準機構)という国際機関の定める基準に従って機構の指定する客観的第三者機関によって評価してもらい、行政の改革と向上をはかるということを、関さんは平成14年に始められましたね。似たような改革は、オランダのティルブルク市デンマークのファーラム市でも試みられています。日本ではまだ新しいことでわたしは大変注目しているのですが....]

そのとおりなんです。ISOの資格は一流企業でもなかなか取りにくいものですが、全国の市町村では15番目、関西では初めて取得することができました。町長としての4年間、わたしは工場長のように現場主義に徹してきました。そこに潜んでいる問題を顕在化させ、解決していくという手法です。どの職場にもそれを徹底してきました。町民はお客様と心得、役場はサービス業に転生するわけです。

平成13年5月から準備を開始し、翌年11月にISOの認証を取り付けたのです。たとえば住民が道路の穴ぼこにつまづき転んで怪我をしたとします。単に怪我の手当てを済ませて一件落着とするのではなく、その因って来たる行政の欠陥というところまでさかのぼって検証し再発防止対策を考えるというアプローチです。癌の告知に当たっても保健士が事務的に患者に伝えるのではなく、しかるべき人がひとりの人間として患者に伝え、次のステップを親身になって話し合う、といった類のサービスが求められているのです。

(8)機械的な町村合併には反対

[市町村合併の動きの中で、甲西町は伝統ある石部(いしべ)町との協議を進めておられ、甲西が属する甲賀郡の「甲賀はひとつ」という呼びかけには応じておられませんね。わたしは今、自治省が進めているようなやり方、すなわち交付金というニンジンを目の前にぶら下げ、財政的考慮に偏った合併を促すやり方に大変批判的です。健全な自治の発展のためには、財政基盤も大事ですが、同時に自分たちのことは自分たちで決めたいという政治的自立の意欲を確保する方がさらに大事だと思っています。山椒は小粒でも自治体としての自立自尊を保ち、病院、消防、上下水道など経費のかさむ行政サービスは、近隣の大きな自治体と契約して代価を払い受け取るといったやり方もあっていいと思っているのですが、関さんはどうお考えですか?]

わたしも同じ考え方です。政府の今のやり方は財政的考慮に偏りすぎです。「甲賀はひとつ」という呼びかけも機械的に過ぎると思っています。大きければよいというものではないのです。そこに住む人のこころが大事だと思っています。この関係では、全国にあまねくある青年会議所(JC)に敢えて苦言を呈したいと思います。この合併問題の脈絡では、全国にあまたあるJCのうちどれひとつ、独自の見解を出しているものが無いのは不思議です。

3.落選、そして原点に戻る

[去る4月の町長選挙では、一敗地にまみれるという結果となりましたが、今振り返ってどんなことを考えておられますか?]

あまりにも純粋すぎたというのが敗戦の弁です。反省しています。正しいことをやっていれば選挙には通るんだという思いがあり、選挙の段取り、方法などにおいても未熟でした。

選挙中でも役場での執務は一日も休まず、告示後もその日の運動を終えて夕刻役場に戻り、胸のバラの花を外して決済書類にハンコを押したりしていました。

選挙が終わったある日、なじみの長老がわたしを訪れ次のように語ってくれたのが印象的でした。

曰く「関さんね、町長として仕事に精を出すのは最初の2年。あとの2年は選挙活動に没頭しなきゃ。これがこの世界の常識だわな」と。

[今後はどうされますか?]

わたしは今一人の人間に戻りました。町で会う人との「ぬくもり」を感じています。手話講座による耳の不自由な人たちとのふれあいを通じてその人たちの将来の可能性を描き、ボランティアに参加する人々とは共同の活動を通じてお互いの存在感を確認しあっているのです。

ここは、「市民派 関治夫」としての行動の原点に一旦、戻り、個々の問題の解決を人に任せるのではなくみんなの怒りの輪に広げ、コミュニティ全体の問題にしていくことを手助けしていくことだと思います。

4年前に、ひとりひとりの改革、甲西町からの改革を目指してその一歩を踏み出しました。地方からの改革こそが、いずれはわが国全体の再生への確かな一歩になるものと信じています。

みんなで踏み出した血のにじむ一歩を一万歩にしようと、昨日も集まってくれた支持者との会合で呼びかけたのです。

[どうも本日は対談に応じていただきありがとうございました。関さんとご家族のご健勝、ご健闘をお祈りいたします。]

(了)


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