随想 平成の信長・秀吉はまだか?

2004. 1.10(2004.1.18 参考資料追加)
七尾 清彦

中学・高校の頃に習った日本史の中世を、最近ふと思い浮かべてみた。まず思い出すのは応仁の乱(1467〜77)、それに続く戦国の世の混乱、そして信長の京都入り(1568)と秀吉の全国統一(1590)あたりか。この前後を入れても150年足らずのこの日本史のひとコマは、前半100年は戦乱と不安の暗黒時代、残りの50年は天下統一への苛酷なまでの軍事的制圧と改革、そして安土・桃山の束の間の豪華絢爛といったイメージである。

この極めて単純化した中世の動きを、最近の日本に重ね合わせてみたところ、かなりの相似性があるような気がする。現代日本の混乱は、1973年の第1次石油ショックあたりから始まった。その後、宮沢自民政権の退場が1993年だからこの間20年、更に2000年の小泉政権の登場までの「失われた10年」が加わるから、都合、約30年間の混乱と不安の時代が続いてきたと言えそうである。中世の戦乱・暗黒の前半期100年と比べれば約三分の一だから、歴史の進行速度は現代では三倍程度、速くなったともいえそうである。

この伝で行けば現代日本の改革と再生には、中世が要した50年の三分の一、すなわち2000年から数えて16―7年が必要という計算になる。ここで二つ、重要な問題が頭に浮かんでくる。第一は、小泉首相は信長かという問題、第二は、社会の中の誰が改革と再生の原動力たりうるかという問題である。

第一の問題は私にはまだ分からない。もし小泉首相が信長に匹敵するほどの器量の人物でないならば、早晩、彼に代わる巨大な人物の登場を社会は求めることになるだろう。リーダーが時代を創るのではなく、時代がリーダーを生み出すのだとしたら,そのような潜在的リーダーは誰にも見えないところで出番を待っているのかもしれない。これまた楽しからずやである。

第二の問題、すなわち社会の誰が改革の原動力になるのかということは、中世史のひそみに習えば答えは比較的簡単に出そうだ。最近、近くの市立図書館に行って今まであまり近寄ったこともない中世史の棚で何冊かの本を見つけ、正月に読み漁ってみた。私なりに判ったのは「自由民の登場」ということである。もちろん中世のことだから、権力者の庇護のもとでの不完全な自由民であり、いわゆる近代的市民ではない。しかし鎌倉期までの顔の見えない百姓や職能人とは明らかに異なるタイプの、より自由な人種である。かれらが社会のなかで急速に台頭し、そこから湧き出たパワーが、終局的には信長・秀吉を政権に押し上げていったようにみえる。

大工・棟梁、鋳物師(いもじ)、金堀(かねほり・鉱山冶金関係)、革作、酒造、伝馬・廻船、商業、土倉(金融)などなど、果ては芸人、祈祷師まで数え上げたらキリが無い。室町幕府の中央権力が崩壊し、これらの非農業セクターの人たちは無秩序の中に放り出されてしまったので、同業者同士の団結と自衛により、あるいは彼らの利害に理解を示す新たな庇護者のもとに、かなりの程度、自由民化していったという。農業そのものにおいても伝統的農耕に加え、林産物加工、麻・木綿加工や、産品を売りさばく商業活動、有力農民による仲間金融などの機能も加わっていったので、もはや単なる百姓とは言い切れない状況が生まれてきたとされる。

荘園・公領制の縛りから放り出されたこれら自由民は、自衛と生存のためにやむを得ず団結して町や村を形成し、生命の安全と生業権益の確保に動いた。京都の町屋での酒造業者の組(縄張り)や法華宗の講による団結、畿内の近江や山城に多く見られた自治的で時に独立戦闘集団ともなる「惣村」、あるいは小田原などの城下町である。もともと領地もなかった北条早雲が一代で、伊豆・相模の二国を確保してグイグイとのしがって来たのは、これらの比較的自由な民を保護し優遇する直轄的統治に長けていたからだとされる。大坂の真宗本願寺の寺内町(じないまち)や一向一揆で有名な北陸吉崎などの宗教都市も、信仰と生存を懸けた自衛武装集落である。真宗中興の祖、蓮如は、近江の商業・交通都市、堅田を根拠地にして、各地の都市を精力的に説法して回り、主に商工民の間に信者を急速に拡大していったとされる。

このような自由民の大量発生が、才覚と器量のある戦国大名の登場を招いたのか、それともこれら有力大名の政策が自由民の増加に拍車をかけたのかは定かではないが、歴史は行きつ戻りつであるから、多分、その両面があったのであろう。厳密な検証なしにあえて私見を申せば、時代の活力と富はこのような自由民が供給していたのであり、信長や秀吉などのすぐれたリーダーは、これを目ざとく察知・活用して天下統一を成し遂げたのであろう。活力と財力のある社会階層が書きおろす脚本に従ってダンスを踊るのが、多くの場合、権力者の処世術だから、楽市・楽座や諸役の軽減免除は、これら自由民の望むところを政策に掲げ、かれらからの政治的支持と財源面での支援を確保したのであろう。

さて、目を昭和・平成の御代に転じれば、驚くほどに今日の世相は中世のそれに近似していることに気付く。荘園・公領制は、日比谷・東大・大蔵省(または一流企業・銀行)コースのエリートによる政官財のトライアングルに例え得るし、室町幕府の崩壊は、いずれ起きるであろう自民党の流動化現象とその後の政策軸による政界再編成に置き換えることができる。自由民の大量発生は、IT・ハイテクヴェンチャーですでにかすかではあるが兆しが見られる。フリーターとなってさまよう若者の中から、あるいは転職やリストラでうごめく中高年層から、今後、珠玉のような人材が政治・経済・科学技術・芸術などで続々と生まれ出てくるだろう。大海の荒波にもまれた魚はきっとおいしい筈である。大晦日の紅白で若い歌手連中が歌うのを聞いていて認識を改めたのだが、「愛を信じよう」とか、「がんばろう」とか、「ナンバー1ではなくオンリー1になろう」とか、意外と堅実で前向きのものが多かった。

われわれ戦後世代は日本史の授業で、日本は弥生時代以来、連綿たる米作中心の農耕社会で農本主義がその特徴だと教えられた。また大化の改新以来、朝廷の権威の下での律令的タテ社会であり、出る杭は打たれる横並びの秩序社会だとも教えられた。中世の150年を見ただけでも、このような史観は偏ったものであり、誤っていることは明らかである。単に学術的に誤りであるだけでなく、このような史観は改革を邪魔することにもなる。幸い、図書館の本棚で見つけた若手歴史学者の本では、人間社会のより現実的な運動の実際、すなわち激動・改革・繁栄・円熟・腐敗・激動の繰り返しだという常識的な史観から、日本史を素直に見つめなおそうとするものが多かった。新進気鋭の歴史学者はがんばっているなとの感を深めた。

仏教伝来から大化の改新へ、戦国から天下統一へ、幕末から明治維新へ、太平洋戦争から戦後復興へ、そしてエネルギー危機から冷戦終結を経て平成の改革へと、歴史は激動と改革のうねりを繰り返しているように見える。それぞれの激動期における改革へのパワーが、果たして中世で見たような自由民、すなわち崩れゆくアンシアン・レジームから離脱することにより力を蓄えたマスの台頭にあったのかどうかは、今後の歴史学者の考証に待ちたいが、この平成の改革に関する限りその真の担い手は、自立自尊で開明的な個人や企業以外には思いつかない。使い古され金属疲労を起こした政党や中央官庁には、個々の優れた人材はいるにせよ、組織としては到底、役に立つようには思えない。中世においても見られた如く、改革のうねりは全国に散らばった町々や村々から、すなわち草莽の中から起きてくるはずである。

平成の信長や秀吉の登場はまだか?きっと出番を待って舞台のすそで待っているに違いない。いつが出番か、脚本を書いているのは全国に散らばる自立自尊の個人たちであり開明された経営理念を持つ成長企業群である。これら平成の自由民が全国各地で力をつけた時が、控えで待っている役者の出番である。

おわり

[参考資料]

以下は、拙稿を読まれた東京在住のT.N.さんからご提供いただいたメモで、活き活きとしてダイナミックな室町時代の様子がよくわかります。メモ中に引用されている「おどりの時代背景について」は、國學院大學教授・文学博士の須藤豊彦様の書かれたもので、このページに掲載することをご承諾いただきました。

七尾


「平成の信長・秀吉はまだか?」を読ませていただきました。昨年度受講の國學院大學オープン・カレッジでの、須藤豊彦教授の講義『日本文化の源流をたどる』でのレジメの一部が参考となると思いますのでお送りします。先生は歌謡文学・日本歌謡史・近世文学を専門とされています。

<引用開始>

『おどり』(女歌舞伎 踊り歌)の時代背景について

女歌舞伎踊りの様子が洛中洛外図に描かれた室町時代は、乱世から秩序に向かう時代と言われる。

この時期、京の都は経済的にも文化的にも飛躍的な成長を遂げた。この経済的発展を担ったのは手工業者たちであり、彼等は上層部に収奪されながらも自治組織としての町組を確立し生活水準を押し上げた。と同時に社会の文化水準をも向上させたのである。京都は応仁の乱以後、甦った新生の町なのであった。

人々は町内会費で、総出で野山に繰り出し花見や物見遊山を楽しんだ。興行されている能や芝居を町中で楽しみ、それぞれに趣向を凝らした風流を、町組が単位となって公家の屋敷や武家方へ掛け合うといった自由も許されていた。歌と踊りに熱狂する人々のエネルギーはとどまるところを知らず、まさしく桃山の春を謳歌していたのであった。遊びの選択は無限に広がってゆくかに見えた。

ところが天下の覇者が交替するたびに町は変貌し、組織化され整理されていった。体制による秩序化によって人々の遊びの空間はせばめられ、芝居と遊里の二つに向けて集約されていく。芝居と遊里は遊女という重要な蝶番(ちょうつがい)て密接につながれた文化施設なのであった。そして要となる遊女たちの存在がなければ、後世のさまざまな芸能文化はおそらく生み出されなかったといってもいいくらいである。

<引用終了>

この時期(室町時代)にこそ多くの日本文化の芽が生じています。またこの時期に京都に住んだ人々は「町衆」(まちしゅう)と呼ばれ、公卿・僧侶・遊女などをも含み、文化の担い手であったのです。

江戸時代になると、町に住む人々は単に「町人」(ちょうにん)と呼ばれ、「町衆」からは大きく変質していったようです。

TNさんからのメモ おわり


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