文化は変えられるのか?

2005年1月
ワシントンDC在住 木村 洋

ある雑誌の中で暫くアメリカに住んだ人が、「花火は下から、緋鯉は上から」という一文を書いていた。シカゴの公園で日本の花火をやるからと誘われて、わざわざ世界一高いジョン・ハンコック・タワーの展望台まで出かけていき、ガラス越しに遠く下の方であがる花火を見たのだが、そこには、あの豪快な打ち上げ花火の炸裂音も、硝煙の臭いも、ゆかたを着た人々のざわめきもなくて、庭でやる線香花火ほどの風情もなかったこと、またミシガン湖畔の水族館で見た緋鯉が、日本庭園の池で見るのとは全く違い、ガラス窓の向うに獰猛な顔をして群らがり泳いでいて、それを横から眺めるのが何とも異様な光景だったこと、その話から始めて、著者は異文化との調和とはどういうことなのか、またその根底になければならない相手の文化への尊敬とはどんなことなのかについて、思いをはせていた。実は私も長いアメリカ生活を通じて、似たような経験を幾つもした。上記の随想に触発されて、今日は私自身の経験も少し振り返ってみようと思う。

私が高校三年の時、留学した先のアメリカの家庭で、私の到着を祝して一寸したディナーパーティをやってくれたことがあった。その時その家のお母さんが、テーブルの飾り付けに大きな浅い水盤を持ち出し、それになみなみと水を張った上、庭のコスモスの花を文字通り首から先だけちょん切って来て、満杯に浮かべたことがあった。それを見た私は、何か大掛かりな花の首実験でも見せつけられたようでぎょっとなったのだが、訪ねてきた客が次々に「まあ、なんという豪華な飾り付けでしょう!」と、感嘆するのを見て、なお驚いた。その情景はアメリカ人にとっては異様でも何でもなく、ただ単純に美しかったのだ。

初めてアメリカへ行くのだから、せめて「茶の心」くらいは心得て行けと言われ、庭の花なら、最も自然なものを一輪だけ切ってきて、床柱の陰にさりげなく飾るのを以ってよしとするなどと教えられていった私にとって、このコスモスの大々的首実検はショックでしかなかったのだが、不思議なことにそれもディナーがいよいよ佳境に入り、メインディッシュのローストビーフが出る頃には、さほど気にならなくなり、真っ赤なイチゴを巨大なクリームケーキの上にびっしりと並べたデザートが出る頃には、「やっぱりこの水盤でなければだめだ!」と思う程、その場に調和したものに見えるようになっていた。

ものの美醜も、その背景や環境、置かれた状況などによって、全く違ってくるのだということ、それをこの一件は思い知らせてくれたのだが、思えば料理の内容についても同じことが言えそうである。西洋料理は正式なものであればあるほど一品ずつ出てくる。順番は大体、サラダ、スープ、魚、鳥、肉、と続き、デザートからコーヒーまで、全て一品ごとに味わうことになっている。而もそれは徹底して味と量という「食べ物としての実質」が主眼であって、食品の並べ方や器との関係、色彩の調和などといった、プレゼンテーションは、飽くまで二次的関心事にすぎず、その評価もいかにそれが食べ物の実質を引き立てるか、またそのディナー全体の雰囲気に貢献するか、といった観点からなされる。これは日本の懐石料理が、食べ物としての実質以上に、またその環境との調和以上に、その作品自体が持つ季節感と、見かけの美しさ、即ち一つの芸術作品としての固有の価値を主張するのとは決定的に違っている。

これはいわば花火や緋鯉の場合の裏返しであって、アメリカ人は花火や緋鯉の持つ、固有の色彩の美しさを、そのまま喜んでいるのに対し、日本人は花火の音や、腹にこたえる振動、川原の人々のざわめきや、ゆかた姿、出店の呼び声や匂いなどが、一つのパッケージとして揃って初めて、ああ花火を見たという気がするのだし、静かな庭の池の中を、見えつ隠れつ悠然と泳ぐ緋鯉の姿を上から見て初めて、ああ美しいと感じるのだ。花火や緋鯉の場合には、日本人の方が全体のコンテキストの中でその美をとらえ、コスモスの首実検の場合にはアメリカ人の方が、テーブル全体の飾りつけと、出てくる料理とのバランスの上で美をとらえているということ、そこに両者の物の見方が、本質的には同格であって、ただそれを鑑賞するためにお互いが慣れ親しんだやり方や環境だけが、違っているに過ぎないという感じがするのである。

和辻哲郎が、有名な「風土」という著書の中で、日本人にとっての夏とは何かについて、それは単に日差しが強く、温度が高く、人が汗を流す時期というだけでは足らず、「・・・露店の氷屋や果物店が立ち並んでいる間に涼みの人たちが白い着物で行き来する夏の夜の町の風景を眺めた時・・・」人は初めて強く夏を感じるのだ、と言い、「・・・夏の気分を除いて夏はない・・・」と言っている。正に音と振動と暑さと人ごみとのパッケージとしての花火を、間近かに下から見ない限り、我々には本当に花火を見たような気がしないのと同じことだ。

和辻は又、「・・・我々にとって南洋は異郷である。なぜならば我々がそこに夏として見出したものは、南洋にとっては夏ではないからである。我々にとっての夏は、虫の音が既に秋を含み、外した障子が冬の風を含んでいる夏である。若葉や筍と百舌鳥や柿との間にはさまった夏である。然るに南洋にとってはかかる秋冬春を含まざる単純な夏が、言い換えれば夏でない単調な気候が存するのみである。かかる単調な、固定せる気候は、絶えず移り行く季節としての夏とは同じものではない・・・」 とも言っている。

この様に同じ「日差しが強く温度が高く人が汗を流す」時期であっても、それを感じ取る人間の側の文化的フレームワーク次第で、それが「夏」であったりなかったりするということ、つまり往々にして「ものごとの実体」よりも、それに触れる側の「受け止め方」の方が、本質的な意味を持つということ、そしてそれが時には世界を動かすほどの大問題になるということを、私は何度も見せ付けられてきた。

日米社会を比較する時、よく「法律沙汰」の多少が話題になる。確かにアメリカでは日常生活の些細な問題でも訴訟になることが多く、それなりに多種多様な専門分野の弁護士が店を開いていることも事実ではあるが、だからといって日本には民事事件を救済する手段が整っていないかといえば、そうではなく、日本には日本なりの問題解決の方法があり、社会的制裁手段も徹底的に整っているのであって、単に日本人はそちらには慣れているからそれを意識せず、アメリカ式解決方法だけを、冷たいだの、醜いだのと感じるにすぎない。

それが証拠に交通事故の際に日本人どうしが見せる敵対感情と、徹底した訴追振りは、アメリカのそれをはるかに凌ぐものであって、アメリカの交通事故が、あれほど激しく、警察や病院、保険会社、時には家族親戚まで巻き込んでの闘いになることはまれである。どういう訳か日本では交通事故処理だけが、アメリカ顔負けの訴訟文化になってしまったが、あれはひょっとしたら日本人が「車社会」という比較的最近の出来事と共に「訴訟社会」というアメリカの側面まで一緒に輸入し、そこだけを徹底的に日本化したから起った現象ではなかろうか。その真偽はともかく、日本人だとてアメリカ人同様、或いはそれ以上に戦闘的に振舞う生活側面があるということを見れば、やはり両者の文化のいずれがより穏やかで、好ましいと、一概に決めるわけにはいかない気がする。

この点で思い出すのは、ある日私が庭仕事をしていた時のことで、向うから10才くらいのアメリカ人の女の子と、その弟らしき4−5才の男の子がやってきた。誰かの誕生パーティにでも行くのか、二人共きれいな服を着ていたが、その男の子が草むらのリスを追いかけたり、水溜りへ飛び込んだりと、その服が汚れるようなことばかりして姉をいらだたせていた。彼女はその都度弟に注意し、せきたてるのだが、彼はすぐまた気をそらせていたずらをする、そんな関係が続いていた。丁度私の目の前へ来た頃、遂に彼女は業を煮やし、その弟に向かって、「It's against the law!」(貴方がしているのは法律違反なのよ!)と叫んだ。丁度道端の石ころを拾って投げようとしていた彼は、それを聞くとぎょっとなり、茫然とその場に石を落としたまま、あとは今までの彼とは別人のようにしおらしくなって、姉に手をとられて歩いていった。

私はこの「法律違反」という一言が、5才児の心理に及ぼした影響に目を見張った。そして一般のアメリカ人にとって「法律」という言葉が持つ意味を、改めて見せ付けられた思いがした。普段「法律」と聞いても、我々日本人はこの5才児がしたように「日常生活で具体的にわが身を縛る社会規範」といった感覚では捕えないものだが、それはその種の社会規範が、明文で規定されるまでもなく、全ての日本人が無意識の内に従うルールとして、日常生活に組み込まれているからではなかろうか。ところが人種はもとより、そのよりどころとする文化もルールも、全てばらばらのアメリカ社会では、みんなが許せるビヘビア−の範囲を、明文で規定しておかない限り、収集がつかなくなるのではなかろうか。大人の間の話し合いでも、すぐ
「契約書のどこにそんなことが書いてあるのですか?」といった話になるのは、多分にこうしたアメリカ社会の構造的背景によるものであって、彼等だけが特別理屈っぽいとか、喧嘩っ早いからではないような気がする。

逆に多くの外国人にとって、日本の社会が訳もなく息苦しく感じられるのは、日本の道徳律だけが特別厳しいからではなく、問題が起った際の社会的制裁手段が、余りにもきめ細やかに日常生活に組み込まれていてよく見えない上に、その作用がしばしば全く逆の現象になって現われるため、何をどうしたらどうなるのかが彼等には予測出来ないせいであることが多い。例えば日本人職員の成績を、彼一人の席で誉めたら非常に喜んだのに、彼の上司と同僚がいる席で誉めたら、非常に気まずい顔をした、などという話をよく聞くが、自分の上司の前でこそ誰からも大いに誉めてもらいたいと思っているアメリカ人にとっては、この日本人の行動は到底理解出来そうにない。アメリカでの商談などでも、日本側代表の発言がはっきりせず、日によってくるくる態度が変わるようにすら見えるのは、一団となってそこへ出てきているように見える日本人どうしが、実はお互いの身分、年令、力関係、その他諸々の事情でがんじがらめに縛られていて、一人一人そうはきはきと自分の思う通りに答えてばかりいられない上、毎晩本社の意向を伺わねばならず、それに応じて次の日の態度も変えざるを得ないという内部事情があるせいであって、決して彼等の頭が悪かったり、何か悪い事をたくらんでいるからではないということを、アメリカ人に分らせるのは至難の業である。

一般に日本人には、年令、肩書き、その場の状況、などによって、社会から規定される一定のビヘイビアーがあって、誰しもそれを大きく離れて行動することは難かしい。日本人相互間ではそれが周知の事実なので、一見おかしなことを言われても、相手の立場やその場の状況を知るこちら側にとっては、その言葉の「含み」や「事情」を難なく汲み取ることが出来る。ところが外国人にはこれが出来ない。それだけならまだしも、日本側が相手も当然自分と同じように受け取るものと思って、「含み」や「事情」でものを言うと、本当におかしなことになる。外国との交渉に通訳を雇うなら、ただ言葉がうまいだけではなく、こうした異文化間のコミュニケーション・ギャップも補って訳すだけの力を備えた人を雇う必要がある所以である。

このように、ものごとの実体よりも、それをめぐる人々の先入観の方が効いてくるという、「受け取り方の問題」が最も破壊的な形で現われるのが、戦争指導者相互間のコミュニケーションである。ベトナムが落ちれば、ラオス、カンボジア、タイ、と続いて、遂には東南アジア全域が共産化する恐れがあると本気で考えていた、当時のアメリカ政府と、これは飽くまで国家統一と独立のための戦いだと規定していた、北ベトナム政府との間の考え方のギャップ、それがひいては数百万人の犠牲者を出すあの忌まわしきベトナム戦争にまで発展した。当時アメリカの知的階級から選び抜かれた、超一流の大統領補佐官と閣僚達は、人間の間に優劣をつけたがらないアメリカ国民自身からも、ザ・ベスト・アンド・ブライテストと呼ばれ、ケネディ大統領のニューフロンティア政策と共に、世界中から大いに期待をかけられていた。中でもとりわけ光る一人としてケネディ、ジョンソン両大統領の信任を受け、国防長官としてベトナム戦争の拡大期を取り仕切ったマクナマラは、その後次第に戦争の意義に疑問を抱くようになり、終戦を待たずに辞任したが、それに続く十数年間、世界銀行総裁を務めたので、私もそこの職員として、直接間接にその人柄や考え方に触れることが出来た。

そのマクナマラが後に回顧録を著し、ベトナムの経験を見つめ直すと称して、ハノイ対話なる会合を、当時の北ベトナム軍や政府の指導者達と開催した。NHKの特別番組でも放送されたのでご覧になった方も多いと思うが、その内容は、早く言えばいかにもマクナマラらしい、善意だがナイーブな、戦争反省会であった。当時の両国の最高指導者だった人達と、数時間に渡り白熱した議論を戦わせた上で得たマクナマラの結論は、驚くべき事に「両者がもっと真剣に相手の真意を知る努力をしていたら、恐らくこの戦争は回避可能だった」というものだった。彼はその、あり得べかりし戦争回避を「失われた機会」という言葉であらわしたが、なぜその機会は失われたのかについて、実は彼自身も、NHKの番組製作者も、指摘しなかった理由が、私にはあるように思えてならない。彼等の意図とは全く別に、この番組全体を通じて、私は世銀時代に見たマクナマラという人間の、そしてそれに反映された一つの文化の特徴と限界を、改めて痛感せずにはおれなかったからである。

それを明らかにするには、まずマクナマラという人物の「人となり」から描写する必要がある。確かにザ・ベスト・アンド・ブライテストの一員だけあって、彼の(俗に言う)知的能力は際立っていた。中でもその記憶力と計算能力は抜群で、データ処理に於ける回転の速さと正確さでは、彼は正に生けるスーパーコンピューターだった。このことは第二次世界大戦中、彼が空軍の統計部隊に所属し、物資と人員の最適配分を計算する、いわば人間コンピューターとして実績を上げたことや、その後フォード自動車へ入って、倒産寸前の会社を持ち前の強力なマネジメント能力で復活させた経緯から、既に十分証明されていたとも言える。そこに現われた「数値によるマネジメント」、それが彼の金科玉条だった。

世界銀行総裁となってからの彼の活躍も、フォードの社長や、国防長官時代と同様、超人的なものであった。それはベトナム戦争のつぐないをしようとしたというより、恐らく何ごとに対しても彼が見せる態度なのであろう、援助と開発という世銀の使命に、彼は持てる全精力を傾注した。その懸命さもまた群を抜いていて、彼が一日に読む文書の量、会う人の数、出る会議の数など、その行動の物理量自体が超人的だっただけでなく、相手国を思うひたむきさ、部下を庇護する思いやり、貧しい人々をいたわる気持など、もっと基本的な人間性の点でも、彼は並の指導者とはかけ離れていた。私は彼と話をする機会がある度に、これだけ優れた人格者が、どうしてあの戦争をあそこまで拡大することが出来たのだろうと、目前の話題を忘れて、思いにふけらずにはいられなかった。

暖かく、思いやり豊かで、心から人をひきつけるような人間的魅力を備えた人物、それがどうしてああいう戦争に加担出来たのか・・・その秘密は実はこのマクナマラのひたむきさ自身の中に隠されているような気がする。とにかく全てにつけて彼は一所懸命だった。而も少なくとも彼自身は、常に徹底して真面目で、善意であった。「自分は何もかも良かれと思ってしているのに、どうしてこれが分らないのだろう?」・・・これが理解のない部下や、反論し続ける相手国代表に対して彼がよく示す反応であった。それでもまだ部下や借り入れ国政府は、力で押え込むことが出来た。然し「途上国の貧困」という敵は、何をやっても彼の前から引き下がろうとはしなかった。そこで彼がやったのは、「もっと戦う」ことであり、「もっと金をつぎ込む」ことだった。そして「量と規模」が、世銀オペレーションの効率を測る基準として確立されていった。借り入れ国の内部事情に関係なく、いかに多くの巨大プロジェクトをまとめるか、そしていかに巨額なローンを貸し出すか、それによって職員の成績が測られるようになっていった。「数値によるマネジメント」・・・ 彼の金科玉条は、世銀でも余す所なく発揮されたのである。

ベトナム戦争で定着した「ボディカウント」(死者数)という言葉も、こうした数値への盲信を如実に反映するものである。当時ウェストモーランド将軍率いる戦略本部から、毎日のように発表される「米側ボディカウント25、北ベトナム側3700」・・・などという数値が疑わしい事は誰の目にも明らかであったのに、アメリカのメディアは何の批判もなくそれを伝え続けた。それでも尚改善しない戦況に業を煮やしたアメリカ指導部は、北爆をますますエスカレートさせ、ホーチーミンルート阻止のためラオスにも爆撃を広げ、挙句の果てはジャングルが邪魔だからといって、枯葉剤の散布まで行うに至った。

この際マクナマラの頭の中に、仮に無意識的にではあったにせよ、「落とす爆弾の数を増やせば、それに応じて北ベトナム側の被害も増え、それが圧力となって、やがては敵を停戦交渉の場へ引きずり出すことが出来る筈だ」という計算があったことは、彼自身がハノイ対話の席で認めている通りである。言うまでもないが、この計算には二つの重大なミスがある。一つは、落とす爆弾の数と死傷者の数という、単純な物理的比例関係だけが注目されていて、その背後にある非数量的側面、つまりそんなひどい事をされたら北ベトナム人の結束は増々強まり、その反撃も更に激しくなるだろうという点が忘れられている。二つ目は、交渉は爆弾で相手を徹底的にたたいておいてから、つまり自分が強い立場に立ってからのみ、するものだという、極めてアメリカ的な発想は、相手が自ら弱いことを認める場合にのみ通用する理屈であって、そうでなければ話にならないという点が見過ごされている。

驚くべきことにハノイ対話をやり、相手側から激しく反論されるまで、マクナマラはこの単純なミスに気付いていなかった。いや、この対話をやってすら、彼には本当に心からこの矛盾が理解出来たかどうか、疑わしい。その証拠に、彼はこの対話が終わりに近づいた時点でも、「あれだけひどい爆撃を受けながら、なぜ貴方々は停戦交渉をする気にならなかったのですか」と尋ね、更に「戦争回避のためには貴方々こそ、もっとアメリカにその真意を伝える努力をすべきではなかったですか」と言っている。アメリカ側がとりこになっていた国際共産主義拡大のドミノ・セオリーこそ、幻想に過ぎなかったとは、彼は遂に一度も口にすることがなかった。

相手を知り、相手の立場や文化を尊重することがいかに難しいか、当事者が心では平和を願いながら、それが出来なかったために、どれだけ多くの人間が死ななければならなかったか、ハノイ対話は図らずもそれを明らかにすることになった。マクナマラほど頭脳明晰な人間が、どうしてそれが出来ず、こんな単純な論理ミスに気付かなかったか、それはアメリカの文化の中に、彼だけではなく、彼に代表されるようなアメリカの知識人が、往々にして陥る幾つかの落し穴があったからではないかと思う。

例えば「交渉は強い立場からのみするものだ」という発想は、アメリカ人の日常生活に組み込まれてしまった「生活の知恵」のようなもので、些細な問題をめぐる隣人とのこぜりあいから、税金などをめぐる政府との駆け引きに至るまで、全て交渉も自分のための「闘い」の一部と認識されていて、それは勝つためにこそやるのであり、「相手と共存するために同格の立場で話し合う」という、交渉本来の意味は忘れ去られている。日頃アメリカの家庭では、日本で言うならちょうど弁論大会へ向けて準備中の学生達のように、相手の言い分をこちら側の論理でどうねじ伏せるかだけが話題になり、子供達も常にそれを耳にして育つので、知らず知らずの内にそうしたディベートの能力を身に付けてゆく。とりわけマクナマラのように「出来のいい」子供が、交渉の本質に関するこうしたゆがんだ先入観を持って育ったとしても不思議ではない。

アメリカ人にとってのマネジメントとは、「一握りの極めて優秀な人間が、全てを把握して上からぐいぐい引っ張っていくもの」であって、日本のそれのように「一番下のレベルまで優秀な人材を育てて、全員の共同作業で組織の目的を達成すること」とは考えられていない。そのためアメリカの指導者は、自ら明確なビジョンと戦略を持ち、それに向けてみんなを引っ張ってゆく力があるだけでなく、現場の労働者の問題も限界も、顧客から彼等に向けられる批判も、全てを引き受けて処理するだけの余力を持っていなければならない。大きな組織になればなるほどそんなことは不可能であるから、彼等はそのギャップを彼等自身が作り出した「システム」で埋めようとする。それが高度に機械化された情報管理システムであり、マニュアル化された職員の行動管理システムである訳だが、その過程でトップの関心は、いかに優れた管理システムを作るかということに傾き、いかにして現場の労働者の能力やイニシアチブを生かすかということには向けられなくなってゆく。

世銀に於けるマクナマラのマネジメントも、この例に漏れず、情報と数値による徹底した管理システムは作られたが、それは必ずしも個々の途上国の、個々の事情を汲み取って、それに最も的確に対応するという方向へは行かなかった。そうした個々の事情を一番良く知っていたのは、現場で問題に直面してきた一般職員達だったが、彼等の意見は例外として認められることはあっても、世銀オペレーションの本流にはならなかった。マクナマラ的トップダウン・マネジメントから与えられる処方箋はただ一つ、自由主義市場経済と、それを可能ならしめるような国内経済の急速な構造改革だった。それが受入国側にとってどんなに激しい痛みを伴い、どんな反発をもたらそうと、それは「長期的発展のための生みの痛みである」として退けられた。

市場万能主義は、確かにアメリカや日本のような高度資本主義経済ではうまく機能した。然しそれをどんな発展段階にある国でも今すぐ適用すべき最善の経済システムであると言われると、にわかにその弊害の方が目立ち始める。これもある意味、アメリカ国内でベストであったシステムは、どの国に持っていってもベストであるに違いないという、短絡的発想であって、相手の事情に配慮しないという点で、先述の異文化間コミュニケーションの問題に直結する。

問題解決のための人間的要素に目を向けず、指導部の統率力と管理システムの強化だけで処理しようという態度は、イラク戦争にてこずるアメリカ軍司令部にも同様に見られた。戦争が泥沼化すればするほど、投入される武器の質や諜報技術の向上はうたわれたが、イラク人民の心情を理解するべく、もっと多くの社会人類学者を投入すべきだなどという発想は、誰の頭にも浮かばないように見えた。次々とレベルアップされるシステムでコントロールするだけがマネジメントのやり方であるという、日頃の自国での経験の限界が、ここにも反映されているようだった。

アメリカ企業における短期的収支(ボトムライン)への極端なこだわりも、マクナマラ的意味での「数値の自己目的化」に密接に関連している。一般市民も株主になり、会社の業績に細かく目を光らせるアメリカ式資本主義は、ある意味では最も理屈通りの資本主義であって、それがために経営者が極度にボトムラインに神経質になるのも止むを得ないが、その考え方が他のことにそのまま適用されると色々な不都合が起る。北爆の効果が、落とす爆弾の数と死傷者の数という単純な比例関係だけで計算されるような馬鹿げた間違いが、マクナマラにとって馬鹿げた間違いと思えなかったことは、そのいい例といえよう。

もっと一般的に、アメリカ式自由競争の行き過ぎも、この種の問題に輪をかけている。一握りの飛び抜けて優秀な指導者が、全権を握って組織を引っ張って行くというマネジメントが嵩じると、やがてその指導者自身も、その地位に残るために求められる資質が多すぎて、こなしきれなくなり、かろうじてその地位にしがみつくことだけを目的にするようになる。即ち「他より秀でること」自体が自己目的化し、本来自分が賭けていた筈の、組織全体の目的が忘れ去られる。みんなと一緒になって、共通の目的を達成しようとするのでない限り、自分の地位は絶えず脅かされる。これがアメリカ式競争社会に必要以上の緊張感を生んできた。競争が個人の励みになり、サービスの向上につながる内はよい。それが単なる競争のための競争になった時、努力の意味は失われる。

イラク戦争を正当化する必要に迫られたブッシュ大統領が、「イラクに民主主義を定着させれば、中東全域に民主主義と平和をもたらす契機になる」という、崇高なる目的をうたいながら、自己の選挙戦ではあくまで「テロリストからのアメリカの防御」という、実利的目標を頼りにしなければならなかったこと、つまり世界平和という本来の目的よりも、自由主義世界の盟主としてのアメリカの地位と安全の方が、実際には優先課題であったということ自体が、手段としての戦争がいかに無駄な努力であったかということを、浮き彫りにしている。自分が選ばれるためには止むを得ない選択だった、とか、政治の本質とはそういうものだ、とか言って片付けてしまうには余りにも多くの犠牲を、アメリカ国民は払わされることになった。

イラク戦争が抜き差しならなくなった頃、アメリカのある雑誌に、傷ついて帰国したアメリカ兵を、ブッシュ大統領が見舞った時の記事が出た。それぞれのベッドにかがみ込むようにして話しかける大統領を、じっと見返す四人の兵士の写真が出ていたが、その誰もが、微笑むことはなく、怒りや、悲しみ、抗議や、あきらめを含んだような、何とも言えぬ深いまなざしをしていた。戦場で死んだ同僚達と違って、自分は辛くも一命を取り留め、今後一生安全な生活を保障された上、普段なら近づくことすら出来ない大統領から、直接見舞いを受け、勲章をもらい、いたわりの言葉もかけられたことが、一兵卒にとって持つ意味・・・そんなものは彼等のまなざしからは微塵も感じられなかった。雑誌の編集者が、わざわざこういう顔だけを選んで載せたのかどうか、それは私には知るよしもないが、その横にはいずれも家族のコメントとして、大統領の厚意に深謝する旨の言葉が書かれていた。日本では第二次大戦中、戦地から送り返されてきた息子の遺骨を受け取るに際して、その母親が、それを届けてくれた村長や軍関係者に対して、我が息子は陛下のためにお役に立てて光栄でございましたと言うのが普通だったそうだが、ブッシュに礼を言う家族の心中も、それとどれほど違っていたであろうか。私にはその本当の思いが、四人の兵士に共通の、あのまなざしに最も如実に現われていたような気がしてならない。

それならなぜアメリカ国民は、ブッシュに集約されたネオコン的一国独走主義を、再び選んだのか。私はそこにもまた、アメリカ人の日常生活の基本にある考え方が反映しているように思う。西部劇時代から今なお続いている勧善懲悪主義、自由主義という名の弱肉強食原理、国家としては負けたことがなかった歴史、法律とアメリカン・ウェイ・オブ・ライフという信条以外には国民を統合する手立てがないという文化構造、それにあのマクナマラですら気付かなかったナイーブなひたむきさ・・そんなものが一体となって、アメリカ人の心にあの9・11事件の衝撃を何倍にも増幅して植え付けたのではないか。そしてちょうど冷戦当時のアメリカ指導部が共産主義について感じたのと同じような恐怖感と、やみくもな反撃への衝動を、感じさせたのではないか。

更に今回の大統領選挙には「宗教的右派」と呼ばれる人達が大きく関係した。彼等は宗教的観点から、堕胎、同性愛、尊厳死、幹細胞研究、などには反対、政治に宗教を持ち込むこと、学校で道徳を教えること、などには賛成で、「今の腐敗した社会を宗教の力で正す」ことをうたう点で、多分に原理主義的であり、それがブッシュの保守主義や、生活スタイルとうまく共鳴した。一部のメディアはこれをあたかも宗教的保守主義が急速に力を伸ばしてきたかのように報じているが、社会問題の解決を、個人の良識や、教育、家庭、などより、宗教にゆだねるという考え方は、アメリカ建国以来ずっと存在していた訳で、たまたま今それと反対の、いわゆるリベラル派の動きが力を得てきたために、それに対抗する動きとして、在来の考え方への揺れ戻しが起っているにすぎないのではなかろうか。だとすればそういう考え方がアメリカの主流になった時何が起るかは、専門家の予測を待つまでもなく、過去のアメリカの歴史を振り返るだけで足るであろう。

ブッシュやマクナマラのことを、ナイーブでおめでたいといって片付けてしまうことは簡単だが、それだけでは何も変わらない。そういう人材を指導者として選択する一般のアメリカ人に、どうやって相手のことを相手の立場で考えることを教えるか、アメリカ式のやり方だけがベストではなく、異文化間の理解と寛容こそが、結局はアメリカをも守ることになるのだということを分らせるか、その意味で、本当に人々の文化は変えられるのか、それが今アメリカの知識階級に問われている課題ではないかと思う。


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