「シルバー世代のあり方」

以下の講演は2004. 11. 20 に「四季会」の皆様を前に七尾が行ったものです。

「四季会」は、尼崎市立産業高校昭和35年卒業生が、同窓会を改組し地域社会発展に寄与することを目的として2002年11月設立された集まりで、これまでに8回の会合を催し会報を発行されるなど活発に活動を進めておられます。


本日は、箕面の地にお招きいただきありがとうございます。高校の同窓会から発展され地域の改革のためシルバー世代として尽力しておられる「四季会」の皆様にお話できる機会を得ましてうれしい限りです。これからシルバー世代に入っていく私どもとしてはどんなことができるのかといったことを私なりに申し上げたいと存じます。

シルバー世代は自由に使える時間が多い

外交官としての若い頃は、こうあるべきだということを教えられもし、みずからもそれに合わせていこうという努力の軌跡であった感じがします。語学の力を貯え、相手国との折衝能力を涵養し、先人の残した教えに従い、ひとつの鋳型に自分をはめこむ努力だったように思います。ただ32年間も同じ仕事をして過ごしておりますとやがて鋳型がわが身を縛り付け、窮屈で不自由なものになって来ました。無位無官となった後半の人生は、そのような鋳型からわが身を解き放つ人生ではないかなと考えています。

人生60年もたちますと、退職とかいろいろな転機が誰にも訪れるわけですが、違った角度からものごとを見る機会でもあります。そうすると別の分野が見えて来たり、これまでの経験を新しい分野に活用したりできるのではないかと希望しています。私は外交官をやめて6、7年になりますが、役職や顧問などに一切つかず、大津の田舎で行く川の流れを眺め、雲の行く末を見ている毎日で、時間はたっぷりあり自由に使えます。映画館や電車には一番空いた曜日や時間に利用できます。何事にも変えられない新しい発見や喜びもあります。特にありがたいのは、われわれの世代はコンピュータの発達のおかげで、海外にいる友人とも簡単に連絡が取れたり、数秒間のアクセスで各種資料や情報が簡単に入手できることです。こういったことが私のシルバー人生での特徴ですね。以前は会社などの大組織にいないと資料や情報にアクセスできませんでした。書くことも、ノートや鉛筆を使わずともキーボードに打ち込むだけで簡単にできます。

私は「ひとりひとりのルネッサンス」という本を退官後、出版しました。1冊お持ちしましたので四季会のみなさんにご回覧いただければ幸いです。夏の暑い盛りに比叡山に籠もって原稿書きをしたのですが、何回もの書き直しで軽い腱鞘炎になりました。昔の文学者や物書きさん、たとえば樋口一葉の原稿の推敲の跡を見ると、鉛筆を削ったり消しゴムで消したり大変なことだったのではないでしょうか。私たち世代のシルバー時代はコンピュータという便利な機材のおかげで、居ながらにしてわが家に調査部、分析部、歴史部を持っているようなものだと思います。

ボランティアとは

シニアの人生はよくボランティア活動と関連づけて語られますが、私は西洋から入ってきた思想とかキリスト教的な博愛、奉仕精神などをわざわざ持ち出さなくても、ボランティアは日本で昔からあった人間社会の「あたりまえのこと」だと思います。たとえば宮沢賢治の「雨にも負けず」という有名な詩がありますが「…東に病気の子供があれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくていいといい、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにデクノボーと呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういうものにわたしはなりたい…」とあります。これぞまさにボランティアなのでしょう。宮沢賢治はこうしたことで給与をもらっていたわけではなく、「デクノボー」と呼ばれてもそれで満足していました。日本にはボランティアの伝統がないなどと大上段に構えて議論する必要はなく、日本古来の「日本人の知恵を当然のこと」としてやってゆくことでよいのではないでしょうか。戦後はたまたまみんな忙しすぎてそんなことに手が回らなかっただけで、よりバランスのとれた日本の社会に戻るということで良いのではと思います。

二つの大事なもの

役所を辞めると色々ものが見えてきたと申しました。きょうは2点申しあげます。

第1点は、日本には本当の「市民革命」はこれまでなかったのだと考えれば、色々な物事がよく見えてくるという点です。バブルが破裂したおかげで、真の「市民革命」・・・もちろん無血ですが・・・を日本で行うチャンスが訪れたということです。第2点は、戦後の復興や高度成長のもとで猪突猛進してきたわけですが、「日本文化」という大事なものを置き忘れてこなかったかということです。戦後の教育は戦前のものを否定するに急で、極言すれば「戦前のものは十把一からげで全部悪い」というものでした。今大切なことは、世界に通用する日本の文化と個性を再構築することですね。この市民革命と日本文化の再構築が、これからシニアとして生きていくわれわれ世代と強くリンクしていると申しあげたいのです。

ダイナミックな日本の歴史

江戸時代までは儒教、仏教、本居宣長言うところの大和心などの倫理観、道徳観の世界にどっぷりと浸ってきたわけですが、明治維新になると近代哲学、自然科学など西洋の文化・文明が滔々と流れ込んできました。これは大変だと、鹿鳴館のように欧化思想にかぶれ顔だけは日本人なのに身も心も西洋人となってしまいました。明治天皇はこれではいけないと、「日本を守るために」儒学者に命じて教育勅語を作らせたりしました。ところが時代を経て昭和の軍閥、軍国時代になってくると、明治天皇が考えもしなかったようなかたちで「王道楽土」とか「神国日本」などといいながら、満州や中国大陸に出て行ったのです。これは、明治が悪かったから昭和がそうなったと議論するよりも、明治に残されたものを昭和の人間が悪用したというものではないでしょうか。

私が申したいのは、江戸時代や明治時代に先人が営々と蓄積してきたものの中には立派なものが必ずやあるはずということです。たとえば、NHKの「深夜便」を聞いていても当時のすばらしい音楽や文学が紹介されます。軍歌にすら人の心情に訴えたものもあります。

つまり、戦後教育でのあまりにも行き過ぎた戦前否定、日本否定というものを正す責務がわれわれの世代にはあるのではないかと考えています。われわれは、両親や祖父母が生きている時代に育ったわけで、ある程度日本的なものをわが身に引き継いでいるはずです。しかし、学校で受けた教育はアメリカから輸入したものが基本でした。戦前と戦後の両面を知っていてそのバランスを図れるのは、われわれが実は最後の世代なのです。

国を代表する外交官として「日本はどういう国なの」と聞かれたときに、「中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』で上から下への秩序がきちっとしていて、全国平和で、しかも民主主義で…」というような教科書的説明をすることが期待されるわけですが、実はおかしいのではないか、日本も人間社会ですから争いもあり、富めるものも貧しいものもいるはずです。江戸300年が、儒学思想の理想郷のような形で連綿と続いてきたわけではありません。室町時代の庶民の反抗、信長の下克上、明治維新など、かならず静と動、安定と革新の繰り返しであったはずです。日本というのは変えようがないのだ、会社の中でがんじがらめになって改革なんて簡単にできないよ、というのが日本の一般的雰囲気でしょうが、私は日本はダイナミックな歴史を持っている社会であり「変えようと思えばできる」と申しあげたいのです。

地方からの改革

私は、拙著「ひとりひとりのルネッサンス」で、「地方からの改革」を取り上げました。県の役人や県会議員に期待したり批判したりするのではなく、住民ひとりひとりが変っていく以外に方法はないのだと主張しています。ひとりひとりが精神的・経済的・政治的に独立不羈(ふき)で行くという気持ちを持つ社会です。日本でそのような社会を作るのは無理だと諦めてはいけません。実は日本にもそういう時代が歴史の中で何回もあったのです。やろうと思えばできるのだという気持ちで、われわれ世代がいろんな分野で考え、実践し、若者に示していくことに、われわれ世代の大事な役割があるのではないでしょうか。

04年2月になくなられた歴史学者の網野善彦氏によると、「中世から近世への日本社会を動かしたのは、天皇、将軍、城主などではなかった。土着農民と支配階級の境目にいる商人・職人、農村で金貸しとなった土倉(どそう)業者、歌舞音曲を作り出す遊女、神官、僧侶など、流通、輸送、金融、宗教などサービス分野にたずさわる人たちが活力を生み出した」としています。その人たちが信長のような指導者を必要とし、信長は社会的な要請にうまく乗っかったにすぎないという発想です。この考え方は、歴史学会では長い間つまはじきにあっていたのですが、最近では網野さんの考え方を支持しようとする若手の歴史学者がどんどん出てきており、網野さんの視点からいろんな時代を掘り起こそうとする努力が続いています。たぶん歴史の実体は、底から湧き上がる庶民のエネルギーとリーダーの両面なのでしょうが、日本の歴史はあまりにも何代将軍がどうのこうの…といった点だけに目を奪われすぎではなかったかという意味でご紹介しました。

日本文化の復活、再構築

戦後の日本に欠落しているものを蘇生させようとする場合、やれ「復古調だの戦前への反動だの」と、われわれ戦後の自由教育を受けた世代はどうしても躊躇する傾向が強いと思います。まだ私自身、具体的に考えがまとまってはおりませんが、たとえば日本は「神の国」で他の民族を支配するべきだといった考え方はもちろん許されませんが、日本人が自然と共存し、その中に美と調和という価値をみつけたりする「大和心」は世界に誇りうるもので見直すべきだと思います。良き物と悪しき物とのふるい分けの尺度が必要となってくるのですが、これを文部省の役人などに任せてはいけません。ひとりひとりの判断にまかせる他はないでしょう。

つまりこれからは、アメリカのモデルについていけば失敗しないという時代ではなく、日本という価値を大切にしながら自らの足で立ち上がり、創造作業を行っていく必要があります。この場合、世界の人たちに普遍的に理解される尺度、価値を持つことが大切です。

日露戦争で奉天や旅順まで行き命からがら帰ってきた兵士が、これで世の中がよくなるかと思いきや、明治の元勲が敷いた体制の中で軍隊は長州・薩摩の軍閥が支配し、政治家は産業の利権につながっていく、国のためにわが身をささげたのにおかしいではないかという一種の反発がその後に生じました。当時の若者は東西の文化のハザマで考え悩みぬきました。江戸時代から引き継いだ儒教社会は「天がすべてを決める」というものでした。西洋の思想は「人間こそが考える存在だから、善と考えるものが善で、悪と考えるものが悪である。自然界は神が創ったものではなく、人間が分析し、経営し、コントロールし、利用するもの」というものでした。このような東西の文化のハザマで、青年たちの悩みと知的模索は大正時代まで「大正デモクラシー」として続きますが、世界恐慌と軍国化で中途で頓挫してしまいました。

戦後はアメリカ型民主主義を最良のものと信じた「フリ」をして走りぬけたのです。最近のバブルの破裂で既成の公式見解とか公的理念などを信用できなくなって初めて、「自分で考えなければいけない時代に放り出された」状況となってきたのです。未完に終わった明治・大正期の青年たちの煩悶の営みを完結させるということが、まさに日本的なもの、つまり西洋と東洋をうまく中庸した日本というものを創り出し、後世に伝え世界に訴えていく一つの鍵になるのではないかと考えます。

「武士道」を書いた国際的日本人の新渡戸稲造は、当時の日本社会の改革のためには「地方学」が重要だと喝破しています。日露戦争の終結期から大正の初め頃までは今の世相とかなり共通性があり、彼らの足跡は多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

地方改革と憲法改正

日頃から新聞などでよく見ることで私が気づいた点を2点申し上げます。その一つは、町や村からの改革は「言う易し、実行は困難」であり、実際にはどうすればよいかということです。もう一つは憲法改正です。

滋賀や京都の市町村で講演をしたり、地元の方と車座になって話をしたりするのですが、土着の業者や役人とつながった候補を打ち負かして、いわゆる市民派町長や村長がボツボツ生まれてきています。これ自体はいいことですが、残念ながら線香花火に終わっていることがかなり多いのです。たとえば、「産業廃棄物処理場誘致への反対」や「汚職など悪事が露見したことへの反発」から市民派町長が生まれたりするのですが、一期や二期すると当初の熱気は消え去り、気がつけば旧来の状態に戻っているということが多いのです。

永続的改革のためには方法論と理念の両方から知恵を出す必要があります。これまで市町村は大都市に比べ保守的なところでしたが、いまや大都会や海外帰りの新しい血が流れ込んでおり、構造変化が起こって当然なのです。それを持続的エネルギーに変えるためには、起きた事件に反発して瞬間湯沸かし器みたいに沸騰するのではなく、5年、10年のプログラムを作り上げ、市議会や市長を巻き込み、彼らに集中している権限を町内や集落に分散していく手法が必要なのです。たとえばオランダでは、社会福祉事業の拡大などで、都市や市町村の財政は1980年代に軒並み大幅赤字に落ち込んでいました。財政再建のため彼らは5年、10年かけて住民への権限委譲を進めたのです。つまり、市長や局長、市議会などがそれぞれ下位の部門や住民に権限を委譲し、行政経費や財政支出を引き下げていったのです。血のにじむような努力で欧州では多くの自治体が立ち直っています。

最後に憲法改正について触れます。今後の世界平和を維持する上では、戦後われわれが教えられたような「国際社会の信義と公正に信頼して」という甘い考えでは決して通用しません。つまり、日本も今後血を流すことを覚悟する必要があるということです。ただし、これは米・英・アジアなど国際社会と共同で行うことであって単独行動ではいけません。集団安全保障の一員として平和を積極的に作り出していく責任を負うということです。

次に天皇制については、日本人の血となり肉となっている問題であって政治理論の次元で簡単にかたづけられる問題ではありません。憲法改正の機会に天皇を元首とする発想には私は反対です。だいたい天皇が国会で開会を宣し挨拶を述べること自体「国政に関与しない」原則からみておかしいのです。天皇制はいい意味の国の象徴としてまもり育てていくべきと考えております。

現行の地方自治法は戦後にできた理念なき単純な手続法です。一番大事な税のことは中央政府の問題だとしています。戦後の日本の復興にはこのような異例の措置も必要だったかもしれませんが、いまや地方自治法を抜本的に改めるべきだと思いますし、単に知事や市長のリコールだけでなしに、いまや世界の常識となっている住民みずからが案を作り提案する「住民発案」などが必要と考えます。

次に教育です。国がいつまでも教育を中央でコントロールすることは、私は「後進国」だと思います。教育の権源は子弟を学校に送る住民にあり、コミュニティを継承する良き人材を育成するという視点が大事です。このための費用を主体的に地方税で徴収することも必要です。たとえば、読み書き、そろばん(コンピュータ)、倫理・道徳などの基礎的な教育について中央でミニマムスタンダードを決めたりするのは必要ですがそれ以上ではありえません。海外諸国での教育は、生徒がみずから考えたり議論したりする能力の涵養に先生が横からサポートしているというイメージです。先生から生徒に一方的に与えるものでないことは確かです。

安全保障、天皇、地方自治、教育などついて、憲法改正や実地の改革でわれわれ世代がどういう判断をしていくかは後世に責任を負う重大な決断だと思います。いろいろな意見をいろんな形でぶつけ合っていくべきだと考えます。バブルがはじけどうしても暗い感じで世の中を眺めがちですが、実は千載一遇の市民革命のチャンスかも分からないのです。日本文化をよりバランスの取れたものする大事なチャンスかも知れません。われわれの世代がどのように考え行動していくかは、孫やひ孫の代の日本にとって大事なことではないかと考えています。ご参考になれば幸いです。四季会の一層のご発展をお祈りしてスピーチを終わらせていただきます。


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