東京の60年(その2)

八幡武史(東京在住)

第一回の小生の拙稿の中で大日本雄弁会講談社とあったのを、大日本雄弁会と講談社は別個のものかという問い合わせをいただいた。これは同一の社で、、戦後しばらくの間、この長い会社名が生きていた。同社に勤める友人はこの会社名を嫌がった。新潮社などと比べると、どうも恥ずかしいというのだ。新しい事象を扱い、女性向け雑誌で最新のファッションを載せているのに、「大日本雄弁会」はないだろう、というのだ。もっと若い女性記者たちは恥ずかしくて、名刺を出せないともいっていた。

いつ頃から社名を現在のすっきりした株式会社「講談社」に切り替えたか分からないが、「講談」そのものが古いことに変わらない。そもそも同社のオリジンは昔、政治家の演説、主義主張の速記を活字にして売り出したことだった、と聞く。それが大衆雑誌『キング』や『少年倶楽部』「のらくろ」漫画など子供向けの書籍を出版、大きくなった。出版物で変わったところで、落語全集がある。一冊で4、500ページあるこの本はベストセラーだったようだ。テレビラジオがなかった時代、円朝、小さんら名人の落語がそのまま楽しめたのだ。

私の時代は娯楽といえばラジオしかなく、夜のラジオ演芸の落語をくすくす笑いながら聞いたものだ。それに夏になると納涼大会が町々にあって、本物の落語家たちがやってきた。前述のように私の生まれ育った所は花柳界が近く、景気もよかったせいか、金語楼とか、当時一世を風靡した三遊亭歌笑などのエンタテイナーが競って舞台にあがった。

ところで私は神田の古本屋で戦前の落語全集を買ったことがある。背表紙の「落語全集」という名題の上の部分に、なにやら紙が貼ってあった。気になるので剥がすとなんと『教養』とあった。戦時中の版らしく、非常時に落語なんか、というお上(その筋、軍、文部関係)のお咎めを気にして、出版社で『教養』なる文字をくっつけたのだろう。しかし、この教養という文字に紙を貼り付けた人物は偉かった。「なにが教養か、たかが落語ではないか」と、軍事色一色に染まる風潮に抵抗したのか、一体どんな人物か、と想像が膨らむ。いかなる時代でも冷静に世の中を見ている人たちがいる。ちょっと大袈裟だが、日本も捨てたものではないと思った。

蛇足だが二、三年前古書店でこの落語全集を安く買った。だれでも知っている「寿解無(じゅげむ)」という落語のページを見ようとしたら、そこのページだけ切り取られていた。こういう時、日本の将来はダメだな、と思う。

(お粗末な一席)


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