東京の60年(その3)

八幡武史(東京在住)

「雨傘修理いたします」

この60年、大きく変わったものといえば、天候だろう。東京だけでなく日本全国がそうだったと思う。著名人の回顧などでも、終戦の年の夏はよく晴れていた、という。確かに青空と入道雲の夏しか思い出せない。でも雨の日だってあっただろう。こうもり傘の修理やという商売があった。傘が貴重品で「巡回でこうもり傘と鍋釜の修理に回ってきました。御用の方は通りの角までお持ちください」とふれ歩く。最初は「巡回で」のセリフの頭に東京都の都(と)があって「都の巡回で」と、公共事業のようにいっていたのが、いつの間にかただ「巡回で」となった。どうも「都の巡回」のほうが調子がよいのだろう。「巡回で」の前の『と(都)』がなくなり『ウッの巡回で』というのだ。この修理やが回ってくるたびに、わが家では聞き耳を立て『ウッの巡回で』を笑ったものだ。この初老の修理やは「傘の骨接ぎいたします」といって、折れた傘の骨に添え木のような金具を当て、穴の開いた鍋はアルミのボルトのようなものを穴に差込み、金槌で叩くのだ。私はこの修理やがくると、傍らでじっと仕事を見ていて、「邪魔になる」と嫌がられた。雨が降れば、使い捨てのビニールや折りたたみの傘を使う今日日の人たちには、こうした商売や傘屋には必ず「傘修理」の看板が掛かっていたなんて、想像できないだろう。こうもり傘の代用品として番傘が置いてある家が多く、酒屋などの名が大きく書いてあり、差すにはちょっと恥ずかしかった。時代が変わったのだ。わが家の娘は番傘を知らないという。

東京の夜空

空気が澄んでいたから、夜の星もよく見えた。なにしろ日本、東京の夜全体が真っ暗だったからなおさらだ。地上は所々ぽつんとある街灯だけが頼り、すこし離れた所にある銭湯に大人たち数人と誘い合って出かけるのだ。夜道はなにかと物騒だった。みんなで歩きながら、「あのもやもやしているのが天の川」「あれが北斗七星、あの柄杓の先はいつも北を差している」「あっ、流れ星だ」。すると一緒に歩いているお姉さんが「願い事をしながら流れ星を見ると、願いが叶うのよ」なんていいながら、自然のプラネタリウムの夜道を行く。東京の復興は意外に早く、まず後楽園のナイターが始まり、球場を照らすカクテル光が、大袈裟だが東京全体を明るくした。電力もアップして街の灯も戻り、一方、星空を消した。それでも昭和三十年ごろまでは、東京をちょっと離れると、星が降ってくるような夜空があった。

夜空といえば、終戦の年の三月十日の東京大空襲の日の夜も覚えている。もちろん私は四歳だったので、月日なんかは後で知ったのだが、夜中に母に起こされた。「今日の空襲は大きいわ」というので、私も母が見上げる外を見ると、夜なのに空は真っ赤だった。層になっていて、下のほうの赤がもっとも濃く、上にいくに従って淡くなり、紺碧の夜空となる。広重描く浮世絵の夕空のようで、不謹慎だが、私にはとても綺麗に見えた。あの夜空の下で十万人もの人が亡くなったというのに。
(了)


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