東京の60年(その4)

八幡武史(東京在住)

東京の奇跡

「東京の60年」を回顧しているうちに、私はいかにラッキーだったかと感じる時がある。東京の真ん中で家が戦災に遭うこともなく、親、家族に戦争の犠牲者がいたわけでもなく、一家五人がよく生き延びたと思う。家は三回引越しした。強制疎開ということで、立ち退き、家は取り壊され、戦火を防ぐため空き地にされた。その都度引越し荷物は少なくなり、要らないものは捨てたが、妙な物は手元に残った。東京の山手線の内側の同じ所に、今でも母たちは住んでいる。戦時中は神棚があって父は毎日拝んでいたが、ご利益がなかったらしく、戦後しばらくして廃棄処分になった。父は姉三人、男一人の家の一応は家長だったので、徴兵検査はお目こぼしで丙腫だったらしい。それでも太平洋戦争末期には、四十代だったが駆りだされそうになった。兄は国民学校生だったので、北関東に学童疎開した。食べ物もなく、かなりひどい経験をしたらしい。父が迎えに行き、皆より一足先に帰ってきた。全身疥癬だか、できものだらけだった。幼児だった私と妹は母にくっついて、生き延びた。昭和二十三年には妹が一人増え、兄妹四人、六人家族となった。食糧事情が悪かったが、幼かったせいか格別にひもじい思いをしたという記憶はない。ただ四人兄弟だったので、おやつなんかではよく喧嘩をした。いかなるものを食べていたかについてははっきり思い出せない。が、終戦間際に空襲があり、米屋が焼け、配給予定の山積みになったトウモロコシが袋ごと燃えてしまって、炭のようになったのを食べさせられたのを覚えている。特にあの炭化した穀物の匂いは忘れられない。後に分かったのだが、その食料としての穀物、トウモロコシは満州(中国東北部)から戦火をくぐりぬけ、ようやく届いた代物だったらしい。われわれの世代は米の代用食としての豆類にアレルギーを持っている連中が多い。しかし、甘味が欠乏していたので虫歯にならず、胃腸も丈夫なのが取り柄だ。たった一、二年の差だが、甘い物が欠乏していた世代と、われわれの後の甘い物が出回り始めた世代とは歴然と違う。歯の良し悪しは健康も左右する。

ああ東京オリンピック

私の一家が今日までなんとか生きてこられたのは、土地、家があり住環境に恵まれていたからだ。家賃、住宅ローンとは無縁だった。住宅問題は東京に住む人間にとって一生を左右する。一生、住居費にかなりの出費を割かなければならないのと、まったく住居費を払わなくて済むのとではまったく違う。それに勤務先に近く、都心に家があって通勤の苦労をしないなんて、まったくの不公平ではないか。といってもその分、余裕としてのお金を溜め込んだか、時間を有効に使ったかというと、必ずしもそうではない。思い出せないが、ちゃんとなにかに浪費しているのだ。

さらに恵まれていたのは、都心で下水道が整備されていたことだ。従ってわれわれの世代とそれ以上の人たちには、おなじみのあの汲み取り式便所は、わが家に関する限り無縁だった。街には定期的に清掃局からバキュームカーではなく、荷車に東京の東という文字を雪の結晶のように図案化した、東京都のマークがついた肥樽を積んだ『汲み取り屋さん』がやって来て、肥柄杓(こえびしゃく)で便所の汲み取り口から汲み取るのだ。肥樽は進駐軍の兵士からハニーカートと言われていたとか。最近の若い人には想像できるだろうか。昭和四十年代初めごろまでは都心から少し離れると、戦災に遭わない家では、まだ汲み取り式の便所が多く、伺うとまずその匂いが鼻についた。十五分ほどで慣れるが閉口した。だから昭和三十九年の東京オリンピックの開会式では競技場にへんぽんと翻った、東京都のマークそのものの旗にはあっと驚いた。汲み取り方式からバキュームカーとなり、肥樽の東マークとは久しく会わなかったからだ。この東マークは丸の中に点があって、丸のふちに毛が生えているような、なにやら怪しげなマークで、当時から評判が悪く、今ではイチョウの葉を図案化したものになっている。
(了)


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