災害が見せる文化の差

2011年8月 木村洋氏(ワシントンDC近郊在住)

地震、津波、洪水、山火事と、このところ世界各地で天変地異が続き、前代未聞の大災害が繰返されている。わずかここ数年間に、インドネシア、中国、ハイチ、チリ、ニュージーランド、日本と、至る所で大地震が起り、オーストラリア、アメリカなども洪水で大打撃を被った。然し幸いにもそれらを全て免れた傍観者の、不遜な観察を許してもらえるなら、こうした大災害の被害者の反応には、地域により微妙な差があるようで、同じように家族財産の全てを失っても、人々がそれをどう受け止め、どう立ち直るかには、見かけ以上に彼等の文化が関係しているように思われる。例えば東日本大震災の際の、東北地方の人々の反応が、極めて穏やかで、整然としていて、どさくさにまぎれた犯罪も暴動も奪い合いも起らず、便乗値上げも買占めも売り渋りもなく、絶望や発狂や集団自殺も起らず、あの悲惨さの中で尚、みんながお互いのことを思い合い、譲り合い、励ましあって事態に対処している姿は、特に海外では大いなる驚きと尊敬の念を以て報じられた。苦難に直面した時にこそ、その国民の真の品格が現れる・・といった論調が、あちこちで見聞きされた。

ハーバード大学などではこの尊敬すべき日本人のビヘビアーが注目され、「グローバル・コミュニケーションの時代に、人間の共感の範囲は、地球規模に広げられるのか」というテーマで、特別講座が組まれる所まで行った。遠い国での災害は、結局は「他人の被害」でしかなかった昔に比べて、被災者の痛みや悲しみ、嘆きや叫びが、そのままリアルタイムで伝わってきて、彼等と同じ思いになれる今では、世界中の全ての人が、本当に一つの人類としての共感を持てるのではないか、少なくとも今度の震災はそのきっかけになりうるのではないか、ということが真剣に検討された。世界でも最高度の防災システムを備えていた日本で、あれだけの大被害が発生したことに、出席者の誰もが驚きを隠せなかったが、特にその被災者達自身が、最も冷静に事態を受け止め、粛々と復興のプロセスを始めていることに、更なる注目が集まらずにはおれなかった。

他方東京電力と日本政府が、原発事故についてアメリカのメディアなどが最初から報道していたことの半分ほども情報を提供せず、事態が抜き差しならなくなってから、やっと少しずつ実情を認めるに至ったことは、海外でもかなり批判的に報道された。現に最初の放射能のニュースにアメリカ西海岸の住民が示したアレルギー反応からして、あの事故が実際にカリフォルニアで起っていたら、どんな大騒動になったか、想像するに難くない。海岸にある原発を津波が襲う危険性も、津波が来たら冷却用の予備電源までやられてしまう可能性も、既に前から十分分っていたのに、(少なくとも福島では)それに対する備えがなかった東電は、正面きってそれを認めなかったばかりか、爆発で建屋が吹っ飛び、誰の目にも事態の深刻さが明らかになってしまうまで、その不備には触れようとしなかった。あれは大企業の尊大さでもあり、本社と現場との問題意識の差でもあっただろうが、それ以上に、「常にとにかくその場その場を平穏無事に切り抜けること」が金科玉条とされている日本式組織運営の特徴が、たまたまあの場でも現れたという方が当っているだろう。

太平洋戦争へ突入した過程だとて、この状況にそっくりで、良識ある当時の指導者達は、誰もがアメリカなどと戦争して勝てる訳がないことは知っていたのに、戦争へ向って押し流されていくその場の状況に、誰一人として逆らうことが出来なかった。それは戦後彼等が口を揃えて、「あの場で戦争に反対することなど、到底出来なかった」と証言していることにはっきりと示されている。東電内部でもまず間違いなく、最後の最後まで、「あの場でメルトダウンの危険性を公表することなど、到底出来なかった」 という状況が、繰り返されていたに違いない。対策が後手後手に回ったのは、東電幹部が無能だったからというより、むしろ逆に彼等が代表的な日本のマネジャーだったからこそ、その反応も、彼等の文化が規定する通りの形になっただけに過ぎないのではなかろうか。つまり問題が起きたら、現場や下請けを叩きに叩いて、内輪だけで事態を収拾する、そして面倒なことは出来るだけ発表しないで切り抜ける、といったやり方、それが結局会社の信用にも、長期的利益にもつながるという発想、・・そうした日本式経営の伝統に縛られたまま、その問題点には仮に気づいていても、彼らは手が出せなかったのではないか。

政治家の反応が鈍かったのも同じことで、彼等各個人が無能というよりは、彼等が普段どっぷり漬かっているコンセンサス・ベースの決定方法が、不測の事態では機能しなかったということなのだろう。選ばれた一人が圧倒的意志力で決断を下し、他を引っ張ってゆくという、真のリーダーシップのメカニズムがないのだから、あんな緊急事態に迅速・的確な対応が取れる訳がない。もし彼等がそうしたメーメー子羊式グループ行動しか取れないのなら、非常時にもそういうやり方のまま緊急対策が取れるように、予めそれに見合った行動マニュアルを作っておくべきなのであって、そうした準備をしないまま、事が起ってから右往左往してみても意味はない。その点、阪神大震災後に神戸が作った、行政と民間が連携して迅速に対応出来るようにした、災害対策システムには、学ぶべきものが多い。どんな不測の事態にも、断定的で大胆な対策が瞬時に取れるような、「関係者の普段の行動様式に即した」組織とメカニズムを作っておくこと、それが必須だと思われる。

その意味で日本は我々が意識している以上に「セレモニーの国」 である。具体的に問題を解決することより、まずは「一所懸命努力しています」という姿勢や、見掛け、ジェスチャー、儀式、の方が重視される。真の解決を図る前に、先ずそのためのセレモニーが求められる。例えば、不祥事を起した企業は、とにかくまず幹部がテレビカメラの前で土下座して謝るのが通例になっている。そんなことをしてもらっても被害者には何の足しにもならないのに、必ずそのシーンが放映され、被害者自身も進んでそうしたジェスチャーを求める傾向がある。それどころか社長が泣いて謝れば、誰もがその会社に対する非難を控えることすらある。結果は何一つ変らなくても・・・。

政府要人でも、あの大震災が起ってからは、全員がナッパ服で出てくるようになったが、あれも彼等にとって、(またそれを見る国民にとって)、いかに「見かけ」が大事かを物語っている。いかにも今しがた血みどろの現場から帰ってきましたと言わんばかりに、全員が作業服を着て記者会見に出てくるが、そこで彼等が言うことの内容は、その格好とは全く無関係で、現場感覚も具体策もビジョンもなく、見てくれの臨戦態勢とは似ても似つかぬお粗末なものに過ぎない。官房長官などが発表する数字も、被災者にとっては何の参考にもならないようなものばかりなのに、それを言っている当人だけでなく、聞く方も何となく尤もらしい対策が取られているかのような気になって、誰もそれ以上追及することがない。実におとなしい国民だと言えばそれまでかも知れないが、統治する側から見ればこれほど御し易い国民もないのではないか。

学者、記者、評論家を問わず、日本の専門家の発言は、多分にデータの集積に終始し、それの意味する所を追求した分析や、判断、個人としての意見などが聞かれることは非常に少ない。これは日本では日頃から調査研究が「データを集める作業」 と誤解されていて、「それを分析してその人なりの結論を出すこと」とは考えられていないからだろう。それどころかむしろそうした個人の意見は言わない方が、客観性が高く、専門的であるとすら思われているように見える。そういう状況だから、幾ら話を聞いてみても、実際の危険度はどの位で、どの範囲の住民が避難すればいいのか、全く分らない。その他にどんな防御手段があるのかも、全然分らない。

原発事故のあと、東電と政府と御用学者とが組んだスクラムは、どこまで意図的なものだったか知らないが、私のような素人にも、あの学者達の言っていることが信用出来ないことは、一目瞭然だった。日本では今でも多くの医者が患者に直接癌を告知せず、まず家族に連絡するらしいが、ニュースに出てきた原子力の専門家達も、一様にまず被災者を安心させようとばかりあせっていて、大丈夫大丈夫と繰り返すばかりで、実際に参考になるような指示は、殆ど与えてはくれなかった。人によっては、「これがデータです。あとは皆さんで考えて下さい」と言っているのと変らない学者さえいた。それを平気な顔で放送しているNHKも無責任だと思うが、本当に被災者を安心させたいのなら、厳しい現実も、そのまま正直に伝える方が余程効果的なのだ。このように一見思いやりがあるようで、実は間違った情報操作が起るのも、一つには国民自身が、学者様というとそれだけで黙って彼等の意見を拝聴する傾向があるからで、権威者なら権威者らしく、実際に我々の参考になる意見を持って来いと、国民が追求するような文化なら、学者側でもあそこまでいい加減な態度は取れない筈だ。これもまた、学者とか専門家とかいった肩書き、即ち「見かけ」 だけが重視され、そういう先生のご意見を伺うという「セレモニー」 に、必要以上の意味が与えられた文化だからこそ、起る現象に違いない。

然し更に皮肉なのは、こうした日本人の従順さ、おとなしさ、我慢強さ、甘さ、受身の姿勢、セレモニー指向、その場の平和優先主義、盲目的権威追従傾向・・などが、正にあの国をあそこまで暖かく、平和で、住み易い場所にしていることだ。それが皆が皆、ずけずけと本音で物を言い、権威には対抗し、セレモニーを捨てて、結果だけを求めるようになったら、当然角も立つし、争いにもなるだろう。あれだけ穏やかで、安心した日本人の暮しを可能ならしめるには、やはりそれなりにみんなが少しずつ我慢をしなければならない。常にお互いがお互いに見張られているような息苦しさや、言いたいことも言えないじれったさ、ごまかされていることを承知で権威には従わねばならない無力感なども、いわば誰もが安心して暮すために払わねばならないコストなのであって、全体としての平和と安全を確保するために、長い時間をかけて日本人が築いてきたメカニズムの一部なのだ。アメリカに住む日本人の多くが、年をとるにつれてやがて日本へ帰って行くのも、ただ単に日本食が食べたいとか、日本の便利さを楽しみたいとかいうことだけではなく、どこまでも安心して暮せる、あの日本の優しさや暖かさが、恋しくなるからに違いない。

問題は、このようにアメリカにいる日本人がちゃんと知っている、日本の本当の良さ自体が、こうした大災害の時には、被害者を必要以上に不利な立場に追いやり、苦しめ、不当な我慢を強いることにもなっているということだ。日常時に見事に機能している日本の平和的文化だけでは、大災害のような緊急事態には対応し切れない。それどころか、その平和的メカニズムが足かせとなって、反って救助を遅らせる。その点を理解しなかったら、我々は本当に被災者の苦労を理解したことにはならないだろう。優しく、おとなしく、甘く、寛容であるがために、彼等は人知れぬ所で、必要以上に苦しまねばならないという理不尽、天災だけでなく、人災までも黙って耐えねばならないという不公平、この点まで是正してかからない限り、災害援助のいかなる施策も、不十分と言わざるを得ない。

今度はたまたまおとなしい人々が犠牲者だったから、政府も企業も、あそこまで手をこまねいていても、それほど非難されずに済んだのだ。あれがアメリカだったらどんなことになったかは言うに及ばず、仮に東京であったとしても、とてもあの程度のおそまつな対応で事が収まったとは思われない。東南海地震が起るのは時間の問題なのだから、今こそ政府も、企業も、個人も、当面の被害対策に全力を挙げると同時に、より長期的に、それぞれの地域の、文化的な強みと弱みを考慮に入れた救済と、次の大災害へ向けたシステム作りにも、取り掛かるべきだ。それこそが本当に我慢強い東北の人々の、世界に認められた立派さに学び、今尚黙って苦しんでいる彼等に、本当に敬意を表することにもなると思う。


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