講談社刊「日本の歴史」第11巻、中央公論社刊「日本の歴史」第9巻、海津一朗著「楠木正成と悪党」ちくま新書、河出書房「滋賀県の歴史」などより。
天皇家の分裂は第一次モンゴル襲来の翌年1275年から始まった。前年即位した後宇多天皇(亀山の子)の皇太子に、後深草上皇(亀山の兄)の子が鎌倉幕府の裁定により立てられた。以後50年余りの間、亀山の系統から三人の天皇(後宇多・後二条・後醍醐)が、後深草の系統から四人の天皇(伏見・後伏見・花園・光厳)がほぼ入れ替わりに皇位に就き、新天皇の父や兄が「治天の君」として朝廷内外に君臨した。前者は大覚寺統、後者は持明院統とよばれる。
14cの大部分を占める南北朝時代については太平記を抜きにしては語りえない。太平記は1318年の後醍醐天皇の治世から筆を起こし、その後の歴史の展開を、足利義満が管領に就任した1367年の「太平」の到来という視点から評価・回顧している。記述の偏りや誤りが多々見られるものの大事な資料である。足利氏による一種の検閲を含め多くの者によってその後の修正作業が加えられており、現存のテキストが確定したのは14c末〜15c初ではないか。太平記の作者については「近江国住人」、比叡山の庇護下にあった物語僧、小島法師円寂(正体不明)などの諸説があるがいずれも定かではない。
1318年大覚寺統の後宇多法皇の皇子である後醍醐が31歳で即位した。兄の後二条天皇が不慮の事情で亡くなったため、もともとその皇子への中継ぎ役として登場したものである。1321年院政を執っていた父の後宇多が隠居し4年後には亡くなり、後醍醐の親政が開始されるに至った。その際、関東に下した使者吉田大納言定房は数十か条にも及ぶ文書を携行して鎌倉幕府と折衝を行い、天皇親政の権限に関し具体的に合意を取り付けようとしている。持ち前の活発な性格もあって、当初考えられた10年程度の中継ぎ天皇どころではなく、これまでのしきたりにお構いなく独自の親政を推し進め、やがて直系(すでに15人をこえる皇子と皇女がいた)への皇位継承を目指し始めた。
「正しきさまに還れ」ということで後醍醐は、中国宋朝の専制的皇帝権力をモデルとしたらしい。朱子学に通じた学僧玄恵を即位直後から重用した。玄恵の講説には日野資朝・俊基ら後に後醍醐の倒幕計画に関与した公卿が多く参加したという。日野家は代々学問で仕えてきた家柄であり、後醍醐が彼等を要職に登用したのは従来の慣例にない抜擢人事であった。
後醍醐は密教とも深い関わりを有した。自ら密教の修法により幕府調伏の祈祷を行っており、西大寺系の律僧で真言密教も修めた文観の影響が大きかったとされる。(文観の素性ははっきりしないが祈祷の効験を買われて後醍醐の寵を受け、東寺の真言宗管長に抜擢されたが宗門の反発は強く、後醍醐の没落ともに山門叡山に逃れた。以後、東寺は足利高氏の京都での拠点となる。)
後醍醐は平安時代前期の「延喜・天暦の治」に戻れとのスローガンのもとに、王権の復活を図ることを基本目標に据え諸政策を活発に展開する。流通政策分野では、新しく関所を設けないこと、洛中の米屋・酒屋への課役、公認コメ市場開設などがおこなわれた。
1324年後醍醐は腹心の日野資朝・俊基らに命じて、各地の武士や有力者が鎌倉倒幕に参加するよう内密に勧誘させた。倒幕計画はやがて六波羅北条の察知するところとなり、資朝らは捕らえられて頓挫した(正中の変)。後醍醐は謀議への自らの不関与を弁明する幕府あて文書で「関東は戎夷なり。天下管領然るべからず。率土の民 皆皇恩を荷う。聖主の謀反と称すべからず」と記している。いたるところに漢籍からの引用がちりばめられた異様な文章であった。
後醍醐の立場が悪化したのを機に持明院統の親王が皇太子に立てられたが、この年の六月には後宇多法皇が没しており、かりに幕府が後醍醐を退位させても後醍醐に政務を引き続き委ねざるを得まいとのしたたかな読みがあったはずである。結局、鎌倉は後醍醐を退位させることは無かった。
後醍醐は皇子尊雲法親王(のちに還俗して護良親王、もりよし)を天台座主にすえるなどして、南都・北嶺の僧兵勢力の取り込みに努めた。こうして進められた二度目の倒幕計画は、失敗すれば皇統の断絶まで行きかねないと危惧した臣下の吉田定房が、幕府へ密告(1331年4月)したことにより再び頓挫した。六波羅はただちに日野俊基や僧文観らを捕らえて鎌倉に護送したが、鎌倉は後醍醐の身に手をかけることをためらった。8月には延暦寺の衆徒が幕府に叛旗を翻し幕府は討伐に手を焼いた。
9月後醍醐は笠置山(京都府笠置町)に拠って兵を募ったが、幕府軍(足利高氏も大将の一人として参加)に包囲され陥落した。楠木正成はこの時後醍醐に対し「たとえ六十余カ国を味方につけましても、相模・武蔵二カ国の武士達にはかないますまい」と述べており、もともと成算無き挙兵であったといえる。
後醍醐は親王とともに山城南部の山中をさ迷ううちに捕らえられ六波羅に幽閉された。楠木正成は急遽、金剛山の東麓、下赤坂に砦を設けて抵抗したが攻め落とされた。正成配下は以後一年余りの間、河内・紀伊・大和の境をなす山々に隠れる。1332年後醍醐は皇位を廃されて隠岐に流された。後任天皇は持明院統の皇太子であった光厳であり、後に北朝第一代に数えられる。護良親王は幕府の手を逃れ畿南の地に出没してゲリラ戦を続けた。
1333年正月、鎌倉時代最後の年は戦いの中に明けた。摂津天王寺では、再起し勢力を拡大しつつ北上する楠木勢と都からの六波羅勢の合戦の真っ最中であった。六波羅は最後の力をふりしぼり管轄下の26カ国から地頭・御家人の兵力を集め、一月末、三方に分かれ南下し金剛山の麓に至って大塔宮(おおとうのみや 護良親王)の籠もる吉野蔵王堂を陥した。
この時、親王の令旨をうけた播磨の赤松円心が幕府に叛旗をひるがえし、京都を目指したため状況は極めて深刻化した。赤松氏は播磨のほか数カ国の守護を兼ね六波羅指揮下の有力氏族であった。閏2月、後醍醐は隠岐を脱出し伯耆の船上山に立てこもった。伯耆守護の配下にあった名和長年が後醍醐の呼びかけに応じるなど、北条一門にこき使われてきた人々が倒幕の原動力になり始めた。九州においても北条が惣地頭をしている肥後の菊池寂阿(モンゴルの文永の役で一番駆けの功を立てた武房の後継)が、肥後一宮で北条嫡流家の配下にあった阿蘇社の大宮司とともに三月、鎮西六波羅(博多)の北条を襲った。
千早城の攻略は困難を極めたが、水源を絶つことで1333年二月陥落した。しかし幕府側は楠木の主力を捕捉することに失敗した。五月には北畠親房が常陸国の関城で幕府側を苦しめていた。
三月末、幕府は播磨の赤松勢や船上山の後醍醐を攻略するため、足利高氏(後の尊氏)を二人の大将軍の一人に任じて軍を派遣した。高氏は鎌倉を出る時すでに北条氏にそむく意思を持っていたとされ、上洛の途上、後醍醐に密使を送って倒幕の勅命をもらい受けたりしている。それを秘して京都に入った高氏は、山陰道経由で伯耆に赴く途上、丹波の家領篠村(現亀岡市)で反幕府の旗を掲げた。源氏の正統に最も近い血統を引き幕府では北条氏に次ぐ家格を認められていた足利氏の離反は、幕府にとって大きな打撃であった。
近江ではバサラ大名京極道誉の変わり身は早かった。道誉は後醍醐の隠岐配流に際しては幕府側の将の一人として護送役をになうなど忠実に振舞っているが、足利が優勢となるや高氏に従い、建武政権下では雑訴裁判所の奉行人という要職を勤めている。
5月には護良親王軍や赤松・千草らと連合した高氏の軍勢が六波羅を攻略、都を制した。探題(北条仲時・時益)は二人の上皇と天皇を奉じ京を逃れ、近江の東山道を北上、関東を目指した。時益は京都東山で戦死(近江関山・・逢坂山のことか・・で野伏に襲われたとも)、仲時は途中、襲い掛かる悪党たちと戦い犠牲者を出しながら琵琶湖東岸を進み、美濃路への入り口の番場峠で何倍ものあぶれ者の大群に行く手を阻まれた。合戦の末、仲時以下500名(430余人とも)を越える人々が蓮華寺一向堂で自害した。
このとき仲時は近江守護の六角時信の支援を頼りに番場(現在の伊吹町あたり)までたどり着いたのだが、しんがりを務める時信の軍の到着が遅れた。六角時信は一里ばかり後方の愛知川に達した時に仲時自刃の報に接し、已む無く高氏側に降伏した。その際、六角時信は惣領家であるにもかかわらず、高氏側にいた同族の京極道誉(佐々木高氏)に口ぞえを頼んでおり、主家と庶子家との下克上を象徴的に示すものであった。
5月8日には上野国の新田庄で、足利と同族の新田義貞が兵を挙げ鎌倉を目指した。義貞は1333年2月の吉野蔵王堂・千早城攻めに参加しており、太平記によればこの時、護良親王の倒幕の令旨が新田一族に下されたとされる。実際は、一族の領地への北条の過酷な徴税負担に耐え切れず反乱を起こしたに過ぎないとの説もある。義貞は5月15日に武蔵国分倍河原に達し迎え撃つ幕府軍を破った。多摩川を越えた義貞は、鎌倉の西北を迂回して18日早朝には七里ガ浜に達した。鎌倉の海を守り新田勢の侵入を阻んでいた何百艘もの幕府側の兵船が22日未明にはいっせいに姿を消し、前浜の防衛線は突破されて鎌倉の町に火が懸けられた。北条高時及び一門7−800名はほとんど投降者を出さずに後背地の葛西ヵ谷で自害して果てた。この地にはのちに後醍醐の意を受けて供養のため宝戒寺が建てられている。
六波羅滅亡の報を後醍醐は伯耆船上山で受け、直ちに持明院統の光厳天皇の在位と年号を否定し自身の復権を宣言した。帰京の途次、播磨で赤松父子、兵庫で楠木正成の迎えを受け、6月4日高氏の制圧下にある京都に戻り高氏を鎮守府将軍に任じた。
明けて1334年正月「建武」の元号が建てられた。漢王朝を復興した光武帝の元号をそのまま採用したのである。帝位の簒奪者王莽を鎌倉幕府になぞらえ自身を光武帝に見立てたのである(因みに昭和は「書経」の「百姓昭明 協和万邦」からとった)。しかし現実は理念通りには進まず、在京の高氏に対し大和北西の信貴山に居続けた護良親王は対抗意識から、鎮守府将軍にすでに任命されている高氏を政権から排除することを求めた。後醍醐は親王に再出家を促したが拒否され、やむなく親王を征夷大将軍に任じて慰撫した。この緊張関係はやがて噴出する動乱の芽を孕むことになった。後醍醐の掲げる「公家(天皇)一統」の政治理念はスタートからつまづき、現実には武家との妥協を余儀なくさせられていたのである。
後醍醐は天皇親政を強調する余り何事も綸旨で処理することを求めたので、行政事務は錯綜・停滞した。また倒幕の動きが始まる1331年よりもはるかに遡って土地所有関係を不安定化させる処断を連発したため、鎌倉期に安堵された土地に依拠する武家層に無用の不安と反発を招いた(旧領回復令、朝敵所領没収令)。これはその後高氏の圧力により(諸国平均安堵法)大幅に修正される。さらに前幕府の所産であるとして御家人制が廃止され守護制度も弱体化されたので武家層に不満を呼んだ。当時の史家はこれらを見て「公武水火の世」と呼んでいる。
倒幕に際して中心的な役割を果たしたのは足利氏であった。新田義貞の鎌倉攻めに際しては、人質として鎌倉にとどめ置かれていた高氏の嫡男千寿王(のちの義詮 よしあきら 当時4歳)がわずか200騎の足利勢に守られて鎌倉を脱出し、のちに義貞に合流している。実はこのおかげで関東の武士がこぞって馳せ参じることになったという(「増鏡」や「梅松論」は、義貞が千寿王を大将軍に推戴して軍を起こしたとしている)。
関東武士の間では足利・新田という両毛源氏の間の声望の差は明らかであった。当時武士層の間には源平が交代して軍事を掌握するという発想が流布されており、もともと平氏の北条のあとは源氏の足利の世となるとの期待があったことも指摘される。関東の上野新田庄を本領とする新田は始祖の義重が頼朝の挙兵に際しての呼応の招きに応じず頼朝の怒りを買い、許されて後も好色の頼朝にさからって娘の差し出しを拒絶するなど火種が絶えなかった。以来150年間、新田氏は幕府から冷遇され守護職はおろか地頭職も数えるほどしか確認できない。川一本へだてた下野の足利庄に拠った足利氏は、頼朝の代に足利義康が一子を木曾義仲に付け、他の一子を頼朝のもとに参じさせて家の安定をはかりその後も姻戚関係を重ねたので、官職所領も広く与えられる武家の名門に成長していた。
鎌倉が陥落し戦火が収まってみると千寿王の陣に加わる軍勢は、新田義貞の軍勢をはるかに凌駕し、新田・足利の勢力は逆転していた。これに驚いた新田勢は足利勢を挑発し両者は衝突寸前となったが、義貞の申し入れで和解が成立した。義貞はこの声望の差を埋めんとして一族をまとめ上京し、後醍醐の忠臣となってその威光を利用しようとしたとみられる。高氏は倒幕第一の功臣として後醍醐の「尊治」の一字をもらって尊氏と改めた。
尊氏に軍事的に対抗しようとした護良親王はその後声望を失い、後醍醐に征夷大将軍の地位を剥奪され、謀反心ありと後醍醐の寵妃廉子(れんし 配流の隠岐まで付き従った)を通じてなされた尊氏の知らせで、1334年には逮捕され鎌倉に流されている。後醍醐は廉子の産んだ皇子たちを重用しておりこれも騒動の一因となった。尊氏は鎌倉に自らの幕府を立て朝廷と並立協調させることを目論んでいたが、後醍醐は幕府不要の天皇親政を目指したので、新政権から尊氏は疎外されはじめた。後醍醐は尊氏の弟直義に廉子の産んだ後醍醐の皇子を奉じさせて鎌倉に下らせ関東を抑える出先機関を設置したが、後醍醐の意に反し足利氏の鎌倉での地歩を一層固めさせることになった。
1335年、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が信濃で兵を起こした(中先代の乱)。軍勢は武蔵に入り各地で足利方を破り鎌倉に迫った。鎌倉の直義は武蔵国井出沢(現 町田市)に出撃したが敗れ、鎌倉に戻り配流中の護良親王を殺害、千寿王や成良親王らと共に三河矢作(現 岡崎市)に退避した。(直義は出陣に先立ち親王を殺害、戦に敗れたあとは単身東海道を西に逃げ延びたとの説もある。)北条時行の軍勢はもぬけの空の鎌倉に入ったにすぎない。三河の地は足利氏の守護国のひとつであり吉良・一色・今川など足利の同族も多くいた。
知らせを受け尊氏は征夷大将軍の称号と東下りの許可を求めたが後醍醐は応じず、足利直義から送り返されてきた成良親王を征夷大将軍に任じた。尊氏は勅許を得ないまま見切り発車で8月京都を発し、三河で直義と合流、北条時行の軍を遠江の橋本、高橋、箱根、相模川、片瀬川に破り鎌倉を回復した。北条時行が鎌倉を支配したのは20数日に過ぎない。しかしこれが半世紀以上に及ぶ南北朝内乱の端緒となった。
8月末鎌倉に入った尊氏は弟直義の東国独立政権構想に引きずられ、建武政権を無視する人事や論功行賞を行い始めた。後醍醐は使いを送って尊氏の帰洛を促し尊氏はこれに従おうとしたが直義が制止した。直義は11月初めには新田義貞追討の檄を諸国に発し兵を募っている。尊氏は同月中旬に後醍醐に義貞追討の命を請うており、後醍醐との決別をなお躊躇していたものと思われる。やがて後醍醐は新田義貞を大将軍とする追討軍を鎌倉に向けて派遣するが、この期に及んでも尊氏は兵を起こそうとせずむしろ隠退の意を周囲に示している。
追討軍東下の報に接してもなお動かぬ尊氏に業を煮やした周囲は、直義と諮り勝手に兵を動かした。足利側は三河の矢作川、駿河国手越河原(現 静岡市)で敗れ関東に退き、新田義貞軍は伊豆へと進出した。ここに至りようやく重い腰を上げた尊氏は、12月駿河国竹ノ下(静岡県小山町)で、直義は箱根でそれぞれ新田勢を破った。兄弟は静岡で合流し西走する新田方を追って正月京都に入った。後醍醐は近江の坂本に逃れ難を避けた。
義良親王を奉じて奥州にあった北畠顕家は、鎌倉を北から攻めるよう命令され鎌倉に到着したが、尊氏と直義がすでに駿河・箱根に向かった後だった。結局、足利軍にわずかに遅れて北畠の軍は近江に到着し、坂本で後醍醐、新田義貞、楠木正成らと合流した。その後両軍は京都近辺で衝突を繰り返したが、足利方は京都を確保できなくなり尊氏・直義兄弟は丹波から兵庫を経て九州へ落ちのびた。
坂本から京都に帰還した後醍醐は、あらためて義良親王を陸奥太守に任じ北畠顕家と共に奥州と東国の押さえとして派遣し、西国へは新田義貞をして足利追撃に赴かせた。播磨国では赤松則村が抵抗し新田軍は難渋、九州の尊氏・直義に再起の余裕を与えた。この間、後醍醐の側近には後醍醐への信頼感を巡って種々の動揺があった模様である。「梅松論」によれば楠木正成は、全国の武家の心が義貞ではなく尊氏へと集まる傾向をみてとり、義貞を切り捨て尊氏と結ぶよう後醍醐に進言したという。和睦を望む尊氏の立場を見抜いた上での献策であったが後醍醐はこれを退けた。正成は「今度は君の戦は必ず敗れるべし」と捨て台詞を残して兵庫湊川の戦場に赴いたという。
海路九州に向かう尊氏は備後国鞆津(現 広島県福山市)に立ち寄り、その際、持明院統の光厳上皇の院宣が都よりもたらされた。その経緯には諸説あるが、日野賢俊による周旋が大きな役割を果たしたらしく、これが機縁で後に日野家と室町幕府の親密な関係に発展する。尊氏一行は1336年3月筑前国に入り合戦の末、大宰府を確保した。このあと大友・島津らを味方に付け4月には東上の途についた。
尊氏・直義は海陸に分かれて兵庫を目指し、5月新田義貞率いる和田岬(現神戸)の軍勢や湊川の楠木正成の軍勢を破った。正成は湊川で敗死、義貞は西宮まで退いて反撃するが敗れて京都に退いた。後醍醐は5月末再び近江坂本に逃れた。光厳上皇は病気と称して京都に残り尊氏の軍勢に保護された。比叡山に拠った後醍醐方に対する直義の攻撃は6月に始まったが抵抗が強く難渋、以後4ヶ月にわたり京都周辺で延々と戦いが続いた。
坂本の地は東国・北陸から京都への物資の流れを扼する要衝の地であり、輸送業に従事する馬借は山門の支配下にあったためこのまま推移すれば京都の人々の生活を脅かしうる状況となった。7月尊氏・直義は、信濃の小笠原貞宗に命じて近江国に侵攻させ、佐々木高氏(京極道誉)・斯波高経らと連携させて山門に補給される東国・北陸の物資を遮断、後醍醐方を兵糧攻めにしたので8月には大勢は決した。
道誉は尊氏軍の一員として湖東の制圧を担当しており、その功により若狭守護に任じられている。この時、佐々木源氏の主家である六角時信はほとんど目だった動きを示していない。1338年に道誉は尊氏により短期間近江守護に任じられており、京極家が惣領の六角家を追い越したといえる。近江守護職は数ヶ月で終わったが、その後道誉は出雲・飛騨・隠岐三カ国の守護に任じられ、京極家の優位は決定的となった。道誉の子秀綱は幕府侍所の頭人(長官)を世襲の職として得、京極家はいわゆる四職(ししき)の一つに数えられるようになった。
これより先、光厳上皇は尊氏に伴われて入京し、東寺に御所を構え政務をとり始め院政が開始された。敗走した新田義貞は後醍醐の籠もる比叡山延暦寺に入った後、東寺の尊氏本陣へ一矢を報いるべく攻撃を仕掛けた。義貞は東寺門前で「この戦乱はただ義貞と尊氏との争いである。民を苦しめるのは本意ではないから大将同士で勝負せよ」と大音声で一騎打ちを呼びかけたという。はやる尊氏は周囲に制せられ、義貞は文字通り本陣深く鏑矢を放ったのみで組織的攻撃を行うことなく引き上げてしまった。義貞のプライドは満たされたが味方をまとめる総合的軍略を欠き、尊氏を追い詰めるせっかくの好機を逸してしまい、その後は各個撃破されていく。建武の新政は発足二年にして瓦解していくのである。
1336年8月光厳上皇の命により光明天皇が、三種の神器なしに即位し北朝が発足した。尊氏はなお宥和の道を求めて後醍醐に帰洛を促したので、後醍醐はこれに応えて叡山を下り交渉に入った。尊氏との交渉の意図を最後まで知らされなかった新田義貞は、これに猛反発し三千の軍勢で天皇を包囲し拿捕するまでにいたっている。太平記は、後醍醐が恒良親王に皇位を譲り義貞に奉じさせて10月叡山から北陸を経て東国へと脱出させたとしている。後醍醐がまたしても義貞を丸め込むのに成功したのか、それとも天皇をつるし上げ譲位させるとの一種のクーデタに義貞が成功したのか、真実はわからない。この時新田軍は越前敦賀へ通じる七里半越(古代の愛発の関)が越前守護の斯波軍に塞がれたと聞いて東北方の木芽峠を迂回して超えたが、異例の寒気と猛吹雪で多くの凍死者・脱落者を出したという。
11月後醍醐は神器を光厳に譲り渡し後醍醐の皇子を皇太子に立て、自身は花山院に軟禁の身となった。この時譲り渡された神器は偽物との説が生じ問題の種を残した。
後醍醐と尊氏の和睦は長くは持たず、12月には後醍醐は神器を携え河内を経て吉野の山中に逃れ、足利討伐を呼びかけた。北畠親房の薦めによったものといわれる。これ以降、56年にわたる南北朝時代が続く。北陸に逃れた新田義貞は追撃の足利勢と越前金ヶ関城や加賀で戦いを続けたが1338年藤島(九頭流川沿い)の戦いで戦死した。義貞の夫人の勾当内侍は太平記によれば、後醍醐が片時も離さぬ寵臣の兄一条行房とともに後醍醐に仕えていたが、彼女の美貌に恋慕の情やまぬ義貞に後醍醐が与えたとされる。北陸へ落ちる際も別れ切れず堅田あたりまで連れて行った。泣く泣く帰京した内侍は都で獄門に曝された夫の変わり果てた姿を見ることになる。尼となって嵯峨で菩提をとむらったようであるが、琵琶湖に身を投げて夫の後を追ったとの伝説も堅田にはある。
1337年夏奥州を進発した北畠顕家の軍は暮に鎌倉を落としいれ、1338年1月末には長躯美濃に達し迎え撃つ高師冬、美濃守護土岐頼遠らの幕府軍を伊吹山山麓青野原(後の関が原)に破った。しかし顕家は近江に入らず南に転進して伊勢、伊賀を経て奈良に入り態勢を立て直して京都を衝こうとした。幕府軍は南下して奈良の般若坂でこれを破り、河内に逃れた顕家軍は最後の決戦も失い顕家は堺浦で戦死した。顕家は武士層の不満を代弁して後醍醐に諫言を行ったが後醍醐の聞き入れるところとならなかった。
後醍醐は1339年、跡を義良親王(12歳)に譲って52歳で吉野に没した。太平記の記すところは迫真的である。「妄念ともなるべきは朝敵を悉く亡ぼして四海を泰平ならしめんと思うばかりなり。・・・玉骨はたとえ南山(吉野)の苔に埋まるとも、魂魄は常に北ケツ(京都)の天を望まんと思う」。 尊氏・直義は臨済宗の夢窓疎石に帰依していたので、その薦めに従い後醍醐の菩提を弔うため天龍寺を創建、疎石を開山師として招いている。
室町幕府内部では、武士階級の秩序回復を理想とした足利直義と、尊氏から軍事面の采配を委ねられていた高師直・師泰兄弟との対立が激化し、直義は南朝に走り院宣を得ての戦いとなり国内各地でも戦乱が起きて騒然となった(観応の擾乱)。結局、尊氏が高兄弟や一族を殺害したことにより1351年、直義との和議が成立した。
近江六角家においては1338年時信の跡を嫡子氏頼が13歳で継ぎ、京極導誉から近江守護の地位を取り戻した。氏頼はこの後、幕府軍として藤井寺・住吉・四条畷と続く河内国内の合戦に参加しめざましい活躍をしている。尊氏と弟直義の不和で幕府が分裂した観応の擾乱では、尊氏が京都を捨てて丹波に走ったのにともない六角氏頼は一旦直義側に投降するがその後に足利兄弟の和議が成立するに及び、一身の進退定め難しとして高野山に入ってしまった。六角氏頼の跡を継いだのはわずか三歳の息子千手丸(義信)であり、その生母は導誉の娘であった。
導誉は建武政権の要職を歴任し政治的にも重要な役割を果たしたが、それ以上にバサラのチャンピオンとして文化史に特異な足跡を残した。
まず1340年、京都東山の妙法院に対する狼藉事件の顛末である。人目を引く贅を尽くした服装で導誉の一行が東山での鷹狩の帰途、妙法院にさしかかり、子秀綱や若党らが同院の庭の紅葉を折ったことから法師たちといさかいが起きた。法師たちは若党らを殴り門外に放り出した。これを聞いて怒った導誉は、手勢三百を率いて妙法院を焼き討ちにした。妙法院は南叡山と号し天台座主を出す山門三門跡に数えられる有力寺院であり、時の妙法院の門主は北朝の光厳・光明両天皇に連なる法親王であった。山門全体としての強硬な訴えを受け、幕府は導誉父子を上総国へ形だけの遠流に処すことにした。
その出京の様子を太平記は「若党三百余騎、打ち送りの為とて前後に相いしたがう。その輩ことごとく猿皮をウツボ(矢の入れ物)にかけ猿皮の腰当てをして、手毎に鶯かごを持たせ、道々に酒肴を設けて宿々に傾城をもてあそぶ。事の体 尋常の流人には替わり、美々しくぞ見えたりける。これも只 公家の成敗を軽忽(きょうこつ)し、山門の鬱陶を嘲弄したる振る舞いなり」と描写している。流罪に追い込んだ延暦寺を守る山王の神のお使いは猿であり、既成の権威に対する導誉のすさまじいまでの反骨心の現われであった。
1366年導誉が大原野で催した花見宴は「京中の道々のものの上手ども(諸芸の達人たち)一人も残さず皆引き具して」「世に類なき遊びをぞしたりける」と記されている。
導誉は公家社会からは批判されたが流刑からほどなく立ち戻り、尊氏・義詮のもとで重用されている。節目節目には重要な政治的動きを示して尊氏らを助けており、尊氏・直義兄弟の対立の背景に導誉の影を見出そうとする研究者もいるほどである。京極家の発展は導誉を抜きにしては語れないが、打ち続く内乱の中で犠牲も大きく嫡子・次子・嫡孫たちを失っている。
後醍醐の建武政府が発足してほどなき1334年、政庁の置かれた二条富小路殿に近い二条河原に落書が掲げられた。「このごろ都にはやるもの 夜討ち・強盗・にせ綸旨」に始まる88節のこの落書は、京童の目に事新しく映った。後醍醐の「新儀」に対する不信感・不快感を示したもので、批判的な貴族ないし僧侶の作であろう。「にわか大名・迷い者」などと伝統的京社会への蘭入者に厳しい視線を示しており、当時の世情・政情を辛らつに批判した落書史上の傑作である。以下はその全文。
「このごろ都にはやるもの 夜討ち・強盗・にせ綸旨、 召し人(うど)・早馬・虚(そら)騒動 生頸(くび)・還俗・自由出家 にわか大名・迷い者 安堵・恩賞・虚軍(そらいくさ) 本領離るる訴訟人 文書入りたる細葛(ほそつづら) 追従・讒人(ざんにん)・禅律僧 下克上する成出者(なりでもの) 器量の堪否(かんぷ・・能力の有無)沙汰もなく 洩るる人なき決断所 (種々雑多の人を大量採用した裁判所を皮肉ったもの) 着つつけぬ冠・上の衣(きぬ) 持ちも習はぬシャク(竹冠に吻のつくり)持ちて 内裏まじはり珍しや 賢者顔なる伝奏は 我も我もと見ゆれども 巧みなりける偽りは 愚かなるにや劣るらむ 為中(いなか)美物にあきみちて まな板烏帽子ゆがめつつ 気色めきたる京侍 たそがれ時になりぬれば うかれてありく色好み いくぞばくぞや数知れず 内裏をかみと名付けたる 人の妻鞆(めども)の浮かれ女は よその見る目も心地悪(あ)し 尾羽折れゆがむエセ小鷹 手ごとに誰も据えたれど 鳥とる事は更になし 鉛造りのおほ刀(大刀) 太刀よりおほきにこしらえて 前下がりにぞ指(さ)しほらす バサラ扇の五骨(いつつぼね) ひろこし・やせ馬・薄(うす)小袖 日銭の質の古具足 関東武士の籠(かご)出仕 下衆上臈の際(きわ)もなく 大口にきる美精好 鎧・直垂(ひたたれ)なお捨てず 弓も引きえぬ犬追物(いぬおうもの) 落馬の矢数に勝りたり 誰を師匠と無けれども あまねく流行る小笠懸(こがさがけ) 事あたらしき風情なり 京鎌倉をこきまぜて 一座そろわぬエセ連歌 在々所々の歌連歌 点者にならぬ人ぞなき 譜第(ふだい)非成の差別無く 自由狼藉の世界なり 犬・田楽は関東の 滅ぶる物と言いながら 田楽はなお流行るなり 茶香十しゅ(火偏に主)の寄り合いも 鎌倉釣(づり)にありしかと 都はいとど倍増す 町ごとに立つ篝屋(かがりや)は 荒涼五間板三枚 幕引き回す役所ども その数知らず満ち満てり 諸人の敷地定まらず 半作の家これ多し 去年火災の空き地ども 禍福にこそなりにけれ たまたま残る家々は 点定(てんじょう)せられて主去りぬ 非職の兵仗流行りつつ 路次の礼儀も今はなし 花山桃林さびしくて 牛馬華洛に遍満す 四夷を鎮めし鎌倉の 右大将家の掟より ただ品ありし武士も皆 なめんたらにぞ今はなる 朝に牛馬を飼いながら 夕べに賞ある功臣は そう(左右)に及ばぬ事ぞかし させる忠功無けれども 過分の昇進するもあり 定めて損ぞ有るらんと 仰いで信をとるばかり 天下一統めづらしや 御世に生まれてさまざまの 事を見聞くぞ不思議ども 京童(きょうわらわ)の口ずさみ 十分の一を漏らすなり」
南朝の態勢立て直しのため1338年親房は二人の親王を擁して海路伊勢を発ち、東国武士の支持を得るべく関東を目指した。途中暴風で散り散りになり親房のみが常陸に達した。以後1343年まで親房は同地にあって東国経略に腐心するが、東国武士達は都合のよい時に南朝を利用するのみで確固たる支持は得られず、親房は成果が無いまま吉野に戻った。「神皇正統記」は武家たるものかくあるべしと関東武士に説こうとしたものだが、理念よりも一族の繁栄など実益に目の行きがちな武士達の支持を得ることは出来なかった。
戦前の歴史教育では、親房は後醍醐の理想の忠実な実践者として扱われたが、実際は後醍醐の家格を無視した人材の登用その他で批判も残しており、一心同体ではなかったと見るべきである。
ほとんど正体のわからない人物である。楠氏の行動半径が畿内西部の相当広範囲にわたっていること、商業組織である座との結びつきがあること、千早赤坂村は辰砂の産地でありこの生産・販売活動により財を積んだ可能性があること、などから、「一所懸命」の伝統的御家人タイプの武士ではなく、発展する中世の商業経済にも通じた新たなタイプの地方豪族であったとみられる。
この素性もはっきりしない。「増鏡」には賎しい民ながら富裕で多くの一族郎党を擁する武士とされている。長年の笠印(鎧につける家紋)は帆掛け舟であり、海上活動に従事する家だったことを窺わせる。後醍醐が隠岐から船上山に移り幕府軍を撃退した際に、「君は船、臣は水、水よく船を浮ぶ」とみずから長年に書き与えたものだとの伝えがあるが、伝説であろう。
船上山の戦いに先立ち長年は米一荷山上まで持ち来れば500文やると近隣に触れまわしたところ、人夫が5-6千人集まって一日で5千石余りの兵糧を船上山に運んだとか、白布500反で沢山の白旗をこしらえ大軍を装ったとか、後の作り話であろうが、長年が相当の規模の商人であったことを暗示するものかもしれない。