シリーズ「日本の原型・・古代から近世まで」

第12節 一揆と徳政令

講談社刊「日本の歴史」第12巻「室町人の精神」、中央公論社刊「日本の歴史」第10巻「下克上の時代」、河出書房刊「滋賀県の歴史」、中公新書「応仁の乱と日野富子」小林千草著、平凡社刊「足利義満」佐藤進一著

1. 南北朝混乱

「観応の擾乱」後の尊氏・直義兄弟の和(1351年2月)は長もちしなかった。直義から距離を置く武士達は尊氏の子義詮(よしあきら)の側についたので、両者の対立が深まり政情は不穏の度を増した。7月には北朝の隙を窺う南朝方の軍勢蠢動も伝えられた。7月末尊氏は、佐々木道誉が南朝と通じ近江に城を構えたとしてこれを討つべく近江に入った。義詮も播磨で蜂起した赤松氏を討つという名目で京都を離れた。尊氏・義詮の間で打ち合わせの上、直義を京都に挟撃する作戦であったと考えられている(導誉が尊氏・義詮と通じていたとする説もある)。

直義は京を脱出し若狭を経て9月には越前に逃れ、その地より軍勢を近江に攻め込ませるが敗れ、10月2日、近江の興福寺で尊氏と敦賀から出てきた直義とが会合しその場で和議は成立したが直義の盟友桃井直常の頑強な反対でだめとなり、11月には鎌倉に引いた。尊氏・義詮は直義との戦いに備え後方の安全をはかるため、南朝との和睦交渉を進め10月下旬に和議が成立した。北朝は廃することとされ「正平の一統」と言われる。

尊氏は京都を義詮に託し鎌倉を目指した。途中、駿河・伊豆・小田原で直義の軍勢を破り1352年正月鎌倉に入った。軟禁された直義は2月に急死する。毒を盛られたとする説が有力である。京都では北畠親房に率いられた南朝軍が2月に入京し、南朝の後村上天皇は八幡の陣まで進出した。北朝側の三上皇と廃太子は八幡へ拉致され義詮は近江へ退いた。関東でも新田義興らが鎌倉を落とし南朝方は一旦の勝利を得た。

京都を追われ近江に退いた義詮は、南北の和議は破れたとして諸国武士を動員し3月には京都を奪回、関東でも尊氏が鎌倉を奪回した。八幡の陣は5月に陥ち南朝方は吉野に退く。京都では天皇・上皇のいずれも不在となり公事の進行が不可能となったが、佐々木導誉の工作で、光厳上皇の生母に政務の総覧役を引き受けてもらい、京都にたまたま残っていた同上皇の皇子の一人に予定していた出家を中止して後光厳天皇として即位してもらい形をつくろった。尊氏は鎌倉を末子基氏に委ね1353年京都に戻った。鎌倉は引き続き足利政権の関東における代表部として政治の中心であり続け、経済的にも足利直轄領や寺社領から財が流入したので繁栄を続けた。

畿内や東国で南朝方が頽勢を示す一方、九州では征西大将軍として後醍醐が派遣した懐良(かねよし)親王が瀬戸内の海賊衆などの助力を得て九州に上陸、これに肥後の菊池・阿蘇両氏も合流し尊氏の攻勢にもかかわらず博多(1355)や大宰府(1361)を押さえた。

大宰府にあった懐良親王が、1368年に元を倒した明の洪武帝から1372年に「日本国王」に冊封されるという珍事件があった。明は建国後、周辺諸国に来貢を促す使者を送りつつあり、日本に対しても特に倭寇の取締りを期待し使者を三度も親王に対し送ってきた。三度目の使者に対し親王はようやく返使を送った。これを受けて冊封詔書を携えた明使が再来するが足利方に捕らえられ、懐良が日本の支配者ではないことを知り上京して北朝・室町幕府と交渉して引き上げた。

後醍醐の跡を継いだ後村上天皇は、正平の一統後も三度にわたり京都に軍を進出させ都の奪回を試みたが、その都度尊氏は後光厳天皇を擁して近江の武佐寺などに逃れ態勢を整えて京都を奪回し、南朝はその都度疲弊の度を加えていった。京都は物資を周辺地域に頼っており、重要な糧路である近江を押さえられるとたちまち困窮する土地柄であり、攻めやすく守りにくい地であるとの特性を有していた。1354年には北畠親房が、1368年には後村上天皇が死去しており、この間に拉致された三上皇と廃太子も帰京を果たしている。

1381年には南朝方貴人達の作になる「新葉和歌集」が成立している。

 年をふる ひなのすまゐの 秋(厭き)はあれど
  月は都と思いやらなん (後村上天皇)

 都には 風のつてにも まれなりし
  きぬたのをとを 枕にぞきく(宗良親王)

 都より ともなふ月の なかりせば
  なぐさめがたき 旅寝ならまし (二条為忠)

2. 知識・儀礼の一般化

中世において訓育・教養の中心となったのは仏教寺院であった。仏教・儒教の経典から処世の倫理や心得を選んで編集したものに「童子教」(鎌倉期)や「実語教」(平安末期)がある。「口はこれ禍のもと」(前者収録)や「山高きが故に貴うとからず 樹あるをもって貴しとなす」(後者収録)などの格言がこれらの書を通じ世間に広まっていった。

延暦寺や高野山金剛峰寺などの大寺院の周辺には、平安時代から金工・服飾などの手工業から建築・土木作業さらには運輸・金融などに至るまで、さまざまな職能を持った人々が集まり実用的知識や技術のセンターとして機能してきていた。

この時代、とくに重要な役割を果たしたのは五山を中心とした禅宗寺院であった。鎌倉幕府・北条氏の庇護を受けて武家社会上層部に広まった禅宗は、南北朝時代に入ると飛躍的発展期を迎えた。五山は宋の官寺制度に倣って13c末に鎌倉幕府が設けたものである。これが室町幕府のもとで、臨済宗夢窓疎石が尊氏・直義兄弟に勧めて全国に禅宗の一寺一塔を建立し拡充された。元弘以来の戦没者の霊を慰めようとした(安国寺・利生塔の設置)ものである。五山の格式第一は建長寺・南禅寺である。五山に次ぐのが十刹(じっさつ)であり、準十刹とされたものを含めて四十を越え、その下には諸山が置かれ都合二百以上の禅院が官寺とされた。やがて義満の代には僧職の任免や寺格の変更などを通じ全国の禅宗教団を幕府が統括することになる。従来寺門のことは朝廷の管轄下にあった。

これら禅宗寺院では中国との交流が盛んであり、大陸の文物が禅僧を介して多くもたらされた。禅院には経典に加え実用書、史書、詩文集(義堂周信は有名)なども備えられ、これらについての講釈も行われ、五山版と呼ばれる書籍の刊行も盛んに行われた。

京都という公家の文化社会に武士階層がなじんでいく上で、手紙や文書についての書札礼、歳暮・八朔など付き合いの作法、文化的で正しい装いなどが広まり、これが一般にも受け入れられて行った。

3. 幕府の安定

尊氏は1358年に病で亡くなりその跡を継いだ義詮(よしあきら)は1367年跡目を10歳の義満に譲り、補佐役として細川頼之を管領に任じた後、同年38才で没した。「太平記」は「無為の世となりて めでたかりし事ども也」と記して筆を収めている。

もちろんこの時期においても幕府内外の諸勢力の関係が安定していたわけではなく、幕府内部では足利を支える一門の有力氏族である細川氏と斯波氏との対抗関係が政治を不安定化させる局面(1379年康暦の政変)もあった。義満は直轄軍の増強により将軍権力を強化した。奉公衆が3,000騎いたとされるから当時大守護が京都に連れてきていた兵力はせいぜい2−3百騎であったので他を圧倒した。

義満は1387年、美濃・尾張・伊勢の守護であった有力外様の土岐氏に内紛を誘発させて力をそぎ、1390年には十一カ国の守護となって強大化した山名氏を、同じく内紛を利用して没落させている(明徳の乱)。1399年には、和泉・紀伊の守護職も得て堺と瀬戸内海交易路を支配するに至った周防・長門の大内氏を挑発し、大内氏が叛旗を翻したことを捉え周防・長門のみの守護職に押さえ込んだ(応永の乱)。

義満は1378年京都の北小路室町に造営した屋敷に移り「室町殿」と呼ばれた。鴨川から水を引いて一町余の池を中心に作庭し花木を配した壮麗な様は「花亭」、「花の御所」などと美称され、後円融天皇以下公卿官人を招いて蹴鞠(けまり)・詩歌・管弦などをしばしば催した。義満は文化面において多芸多趣味であった。和歌・連歌は二条良基から、儒書は義堂周信から学び、笙、蹴鞠、書画鑑定を良くし、世阿弥を寵愛して申楽(さるがく)振興の後ろ楯となった。

1385〜90年に義満は東は駿河、西は周防までしきりに各地を訪問した。駿河以東は鎌倉府の管轄する地域であり、後に「関東国堺(くにざかい)」呼ばれ京都の幕府から直接支配が及ばぬ地域と認識されるに至っている。九州も京都の幕府の支配がゆるい地域であった。

義満は南朝と交渉し1392年妥協が成って南朝後亀山天皇は神器を携え吉野を出、嵯峨大覚寺に入り隠遁生活に入った。神器は北朝の後小松天皇のもとに届けられた。南北合意の一項に、皇太子は南北両系統から交互に出すというのがあったが、後小松天皇の皇太子は義満在世中には決着を見ず、結局は力関係から北朝が皇太子を出して押し切った。

南朝の接収という懸案を処理した義満は、1394年将軍職を9歳の嫡子義持に譲り、37才で太政大臣になって廷臣としての最高位も極めた。この年義満は叡山に上って日吉社にも参拝、翌年には出家して道義と名乗り再び叡山に上って自身の発願による大講堂落慶法要に臨んでいる。この1394年に義満は「西方極楽にも換えるべからず」と言われた北山第(金閣寺)に移って、公家武家の区別無く政務全般に采配を振るい始め、義持は名ばかりの将軍であった。北山第は「公家武家 門前に市をなす。繁栄いふかぎりなし」という有様であった。義満は出家することにより官制上の制約のない自由な立場を獲得したといえる。

義満は明との通交を求め数次にわたり使節を送ったが明は応じてこなかった。しかし1380年に至り明の左丞相胡惟庸が謀反し日本やモンゴルと結ぼうとしたことで明の態度が急変する。1402年「日本国王 源道義」宛の建文帝の明使が、義満が派遣した使に伴われて来日、義満は中国流に拝跪して明帝の詔書を受けとった。

義満は「日本国王 臣源 表す」に始まる表文を明使に携行させ、これを受けた永楽帝は大喜びで「日本国王印」の金印と通商に必要な勘合(日と本を割ったもの)を義満に与えた。義満は明帝に対し日本を代表して明の臣であることを認めたわけであり、この間天皇は蚊帳の外であった。義満に皇位簒奪の意図があったかどうかは論が分かれる。

もともと義満は系譜上は皇室に繋がっていた。義満の母、紀良子は順徳天皇の四代の孫であり、義満自身は当時の後円融天皇とは母方を通じて従兄弟同士で年齢も同じ、互いに激しいライバル意識をもっていたとされる。義満がその後、公家武家の区別無き形で昇進し、公武両世界に属しえたのはこのような事情による。但し義満は実母良子を冷遇しつづけたのでこれを恨んだ良子は出奔事件を起こしており、義満が順徳天皇以来の血筋を重視していたとは思えないのと説もある。

1394年太政大臣となった義満は摂関家をもしのぐ存在となり、義満の日吉大社参詣は「御幸」と称され上皇並みであった。1408年、義満は後継者を指名しないまま急死し、幕府の重鎮斯波義将の判断で嫡子義持を家督に決定する。のちに義持は、早くに嫡子を亡くしており又後継者として指名するに足る者もいないとして、4人の弟の中からくじ引きで決めるよう遺言して1428年死去、後任は遺言通り石清水八幡宮神前での籤引きの結果、1429年天台座主であった義円が選ばれた(くじ引き将軍)。義円は還俗して義教と称した。義教は小心で感情の起伏が激しく偏執性の強い人物であった。

4. 永亨の山門騒乱

新興の禅宗寺院が幕府の統制と庇護の下に置かれたのに対し、南都北嶺などの旧仏教は武士や守護による荘園侵略・軍費賦課に悩まされていた。山門騒乱は1433年、将軍義教、管領細川持之、前侍所赤松満佑のもとでおこった。延暦寺の僧猷秀は高利貸し業で悪行を重ね、延暦寺の修造事業を一手に収め横領もはたらいたので、山門は幕府に措置するよう訴えた。これをきっかけに山門神人らによる洛中での債務強制取立ては禁じられた。

翌1434年には山門と関東公方が通謀しているとの噂が広まり、義教は山門領の集中する越前・若狭・近江の守護に命じて山門領を取り上げさせるなど延暦寺の経済封鎖を行った。この一環で近江守護の六角満綱は近江南半分の山門領を制圧した。義教は守護勢や醍醐・山科・伏見の村々の野伏(傭兵)を活用して、山門神輿の入京を撃退する態勢をとった。幕府や守護が村の戦闘力を動員し始めたことは注目される。幕府軍は坂本を焼き払い首謀者を処刑したが、これに動揺した山徒らは根本中堂などに火をかけて自害した。将軍義教は「山門の事、是非沙汰すべからず」と命じて緘口令を敷きこれを破ったものは処刑したので、洛中には「万人恐怖」の暗い雰囲気が漂った。

山門は収まったが関東公方足利持氏と京都幕府の関係は悪化した。大和天川での南朝分子の不穏な動きもあって義教は手間取ったが、1437年幕府軍を鎌倉に攻め込ませ持氏らを自刃させた。その後も下総での結城合戦(1440)など義教による守護弾圧が続く。義教は1440年、播磨守護赤松満佑の嫡子教康の催す酒宴の席で、乱入した数十人の武士の奇襲を受け首を刎ねられた(嘉吉の変)。赤松親子は、摂津などの所領問題の幕府による処理ぶりにかねてより不満を抱いており、将軍から討伐されるのを恐れ先手を打ったものとされている。将軍が暗殺されたにもかかわらず赤松邸に討手も差し向けられず懲罰の軍の発進も遅れ幕府の権威は地に落ちた。

5. 連合する村々

将軍の後継が幼少の義勝に確定した1441年、近江など京都周辺の土民らが債務破棄を求めて土倉(金融業者)を襲撃した。「嘉吉(かきつ)の徳政一揆」と呼ばれる。将軍の代始めに債務破棄を求めるのは、義教の継嗣直後に行われた1428年の「正長の徳政一揆」が先例としてあるというのが土民達の言い分であった。いずれの一揆も坂本の馬借が口火を切っている。

すでに南北朝の頃に荘園単位で年貢の減免や代官の罷免を求めて一揆が多発していたが、15cに入っての徳政一揆は、領主を異にする村々が横に連合して広域に武装蜂起するものであり、背景には自立・自治の度を強める「惣村」の成長があった。京都の山科七郷の「クミ郷」と呼ばれた横の連帯による度重なる武装蜂起はその好例である。旱魃時の水争いや境界を巡る紛争なども村同士の合力(ごうりき)関係により戦われている。

正長・嘉吉の徳政一揆がともに近江から起きていることは興味深い。特に後者は、近江守護六角満綱の扇動によって引き起こされたものだとの噂が巷間、流された。当時、京都・近江の金融を牛耳っていたのは山徒系の土倉・酒屋であり、彼等が破綻すれば山門も経済的打撃を受けることは必至であった。六角氏の近江には、守護不入の特権に守られた山門領が広範にあり六角氏の支配を妨げていた。ひとたび徳政一揆が起きれば山門領がまっさきに被害を受けるので、六角氏の利害からは一揆を扇動する素地があったものと言える。近江の徳政一揆はたちまちの内に畿内に広がり、幕府はやむなく徳政令を出すに至っている。このとき六角氏は京都の宿所を山門勢に焼き討ちされ近江に逃げ帰っている。

しかしながら徳政令によって究極的に経済的打撃を受けたのは、ほかならぬ幕府自身であった。室町幕府はその財源を土倉から徴収する土倉役に大きく依存していたから、土倉が壊滅的打撃を受けたことでそれを徴収することが出来なくなってしまった。義満は、土倉役・酒屋役の賦課を1393年に始めた。義満は一国平均役の賦課・免除権や京都市政の権限を次々と朝廷から奪う一方、京都の商業界に幅を利かせていた山門・春日社・石清水八幡宮などの排除にも努めた。酒屋・土倉の多くは山徒として山門の支配を受けていた。土倉役・酒屋役の導入は義満の経済政策の総仕上げとしての性格を持っていた。この両税は1430年代になると幕府にとって最も重要な財源となるに至っている。

土倉は土蔵とも書かれ質草を保管するための土蔵を併設した金融業者のことであり、当時、京都では350軒、奈良では200軒、近江坂本では30軒とされている。酒屋は京都では327軒を数えている。

6. 足利義政

 足利義勝は在任八ヶ月で急病死してしまい、1443年家督は同母弟の義成(のちの義政)へと移った。この年、後南朝勢力の夜襲により後花園天皇の内裏が全焼し、御璽と宝剣が奪われるという事件があった。天皇は女房姿に身をやつして辛くも難を逃れたが、幕府側は権力の空白を突かれた観がある。このころ各守護家では内紛が相次ぎ、応仁・文明の乱の構図が徐々に形作られつつあった。1944年美濃守護の土岐家は混乱し美濃は乱国となる。同年、近江六角家でも当主持綱の被官人が叛旗をひるがえした。伊予・加賀でも守護のお家騒動が起きている。同年京都では文安の徳政一揆が起きており、以後徳政一揆は将軍の代替わりの際に限らず京都での政治的混乱の都度に発生している。1448年には赤松家・畠山家で、1450年には尾張織田家でと内紛が続いた。1450年には関東公方足利成氏と関東管領の上杉氏の間で江ノ島合戦が生じ1455の亨徳の乱に発展した。幕府軍が綸旨を得て鎌倉を焼き払うが戦いは長期化した。

1449年義成は元服して将軍宣下を受けた。義成(義政)の母日野重子と義成の心をとりこにした乳母今参局(いままいりのつぼね)の対立は幕政・人事にも影響した。この壮絶な女同士の戦いは重子の勝利に終わり、今参は義政正室の日野富子を調伏して流産させたとの重子の讒言により逮捕され、近江甲良荘で自刃した。

義成は1453年義政と改名し父義教にならい将軍権力の伸張を図ろうとしたが、同時に父の暴君性も背負い込んだ。幕府の財政悪化もあって寺社に対し祝儀や進物をしばしば要求し評判を落とした。斯波家内での主従の混乱は内戦となり越前・尾張・遠江を戦場と化した。斯波家は足利一門の中でも将軍家につぐ高い家格を誇ったが、将軍家から見れば警戒を要するNo.2であり、斯波家を監視するために送り込まれた甲斐常治の謀反が斯波家を衰えさせた。甲斐常治の謀反は成功したが1459年に没したので、下克上の完成は常治の同僚朝倉孝景に託されることになる。戦国大名出現への序曲が始まったのである。

斯波家の混乱と並び義政を悩ませたのは畠山家の内紛であった。河内・大和・山城を舞台とした畠山一族の内紛に義政は介入したが、その機に乗じて細川勝元は山城に対する地歩を固めて行った。このころ1460-61年にかけて長禄・寛正の飢饉が広まり、京都ではわずか二ヶ月の間に82000人もの餓死者が出たといわれる。

1463年には文正の政変が生じる。将軍家の財政を預かる執事であった伊勢貞親は、義政の兄で早逝した義勝の養父であった関係から義政の擬制的父とみなされて力を増し、義政の政治顧問的役割を果たすに至っていた。この伊勢貞親と日野富子は結託しており、義政はこの二人に振り回されることになる。義政は子が無かったことから弟義視(よしみ)を還俗させて後継者に指名していたが、その翌年に富子が男子を産んだ(後の九代将軍義尚)。富子と組む伊勢貞親は、義視に謀反心ありとの噂を広めて失脚を図るが、これに失敗して伊勢貞親自身が失脚し近江に落ち延びた。義政は政治の主導権を失っており京都市中では諸大名主体の一揆により伊勢の影響下にあった土倉・酒屋が略奪された。

7. 応仁・文明の乱

(1)1467年5月応仁・文明の乱が京都や各地で発生した。畠山家の家督争い(義就・よしなり 対 政長・まさなが)、畠山家と斯波家の勢力争い、将軍家内部の後継者争いが三つ巴となって乱が進行・肥大化して行ったものだが、これを大乱にした決定的要因は細川勝元と山名宗全(持豊)の宿命的な抗争であった。

畠山家の家督争いでは義政が畠山義就に味方し、政長の管領職を取り上げたのみならず京都の屋敷を義就に明け渡すよう迫ったことから始まった。これに強く反発した政長は自分の屋敷を焼き払った後、室町亭の北東にあたる上御霊社に陣取り、向かってくる義就勢との戦闘に及んだ。義就は山名・斯波勢の応援を受けたが、細川勝元はかねてよりの義政の指示を守り政長支援を控えたことから義就が完勝した。老獪な山名宗全に出し抜かれた細川勝元は、「弓矢の道」に背いて政長を見捨てたとして世間の厳しい批判にさらされた。報復に燃える細川方はほどなく各地で一斉にのろしを揚げ、5月26日には京都で山名勢への攻撃を始めた。ここに応仁の大乱が始まる。

細川勝元率いる東軍には細川一族と京極・赤松・武田などが、山名宗全率いる西軍には山名一族、斯波(管領)、一色、畠山、土岐、六角などの諸家が加わった(近江は京極と六角が東西に分かれた)。山名氏に気脈を通じる日野富子の激しい反対を押し切って、東軍は義政より幕府の御旗を入手することに成功し官軍の立場を得た。当初は東軍が優位に立ったが、8月周防の大内勢が海路で西軍の応援に駆けつけ上洛したので状況は一変した。この乱では各大名が土民を足軽に傭ったので軍紀は乱れ、焼き討ちと破壊が洛中所かまわず行われた。開戦後三年にして京都の神社・仏閣の殆んどが焼失し、市中や寺社からの略奪品は商人が買い取り、奈良や坂本では売却のための市が立ったという。

1468年、伊勢に逃れていた義政の弟義視は兄義政の説得で室町亭内に戻った。しかし室町第では日野勝光・富子の兄妹は富子の生んだ義尚への家督継承を主張していたので対立した。結局義視は西軍に走り「将軍」として迎え入れられた。ここに東西幕府の並立という前代未聞の事態が生まれた。1470年に西軍は山城地域をほぼ制圧するに至ったが、朝倉孝景が1471年に越前守護のポストにつられ東軍に寝返り東幕府の勝利を決定づけた。1472年山名宗全と細川勝元の間で和平交渉が行われたが決裂し、1473年両者はいずれも世を去った。その後西幕府の衰勢が続き、1474年には義政が弟義視の罪を不問に付すことを誓ったことで乱は事実上収束した。

どうしてこのような大乱になったのか後世振り返ってみても今ひとつ良くわからない。優柔不断の義政はともかく、わが子義尚への継嗣を望んでいた富子は、終戦の翌日、室町第が辛くも焼け残ったことに触れて「最初から焼かないように大内政弘と申し合わせていた」と漏らしている。西軍諸大名と富子の親密な意思疎通が続いていたことを窺わせるものであり、諸大名たちも義視を将軍にすることを本気で考えていたとは思えず、せいぜい取引の道具程度にしか見ていなかった。

(2)近江においては、乱の勃発した1467年六角氏はいち早く西軍に加わり戦力の主要部分をになっている。当主は当時10歳前後の六角高頼であり山内・伊庭などの側近が支えた。湖北京極氏の当主持清は幕府の侍所(さむらいどころ)頭人を務めるほどの有力者であり、東軍側に属して六角の観音寺城を攻め落とした。やがて持清は近江全体を制圧するに至り一時期守護に任じられている。京極道誉以来130年ぶりのことであり、六角勢の主力が京都の戦に忙殺されている間の出来事であった。六角勢はやむなく伊賀に後退してもっぱらゲリラ戦で抵抗する程度であった。

六角にとって挽回の機会は1470年、持清が病没し跡目を巡って京極家が混乱したことにより訪れた。この機会に六角家は近江全体を支配下に置くことに成功した。近江にある寺社領を国人たる在地地主に与えることにより、彼等の支持を確かなものにしたことが成功のもとであった。西軍では寺社領の攻撃と没収を奨励していた。東幕府は延暦寺も動員して六角を攻めたが六角高頼は防ぎきった。これを契機に応仁の乱収束後も、六角は幕府から独立した地方政権の性格を強めていく。

8. 近江親征

義政と富子の不仲はすでに応仁の乱中の1471年頃から噂され、乱後は富子が実権を握って義政の意に反する下知を行ったため、1481年には義政は政務を放棄し山荘に引きこもってしまった。1485年には新造の東山山荘(銀閣寺)に移る。持仏堂である東求堂には、学者の勧めで後醍醐天皇の位牌を安置し供養に努めた。幕府凋落の中で後醍醐への後ろめたさを癒えることの無い古傷として足利一族は持ち続けていたといえる。

富子の産んだ義尚(よしあき)は1479年将軍職に就いたが、髷を切って遁世を試みたり父義政寵愛の女房に手を出したりの奇行が目立った。1487年には将軍権力の回復を狙って六角氏征伐の軍を起こし、近江親征を行った。近江には幕府直参の奉公衆の領地が数多くありこれらがことごとく六角により侵略されたので、この回復を図ることにより幕閣内の人気を高めようとしたのである。表向きには近江国内の寺社領の回復を旗印として掲げ正統性を装うことにより有力守護の協力を確保したのである。

義尚は9月に京都を出発しまず近江坂本に向かった。六角高頼は当初から幕府軍との正面衝突を回避しようとしていたので、野洲河原で両者が相まみえたほかは大規模な戦闘は無く、義尚は労せずして近江一国の平定に成功する。

坂本から湖を渡り鉤(まがり・・現栗東市)の陣にあった義尚が、寺社領の大半を奉公衆に兵糧料としてあてがうと発表するや事態は一変した。収穫期を前にした寺社荘園領主たちは強硬に反対し、義尚は発表を撤回させられてしまった。将軍権力強化の夢はついえ、2年半にわたる近江在陣の後半には失意の中で酒と女におぼれた義尚は、1489年鉤(まがり)の陣中で25歳で没した。鉤に駆けつけた富子は人目もはばからず号泣し、義政は「埋もれ木の朽ち果つべきは残りゐて 若枝(わかえ)の花の散るぞ悲しき」という挽歌を送った。義政は1490年、富子は1496年に没した。

義尚没後数ヶ月で幕府は六角高頼を赦免したが、六角の重臣たちの反発でこの和解は永続せず、義尚の跡を継いだ将軍義材(よしき)が再度(1492年)六角征伐の兵を起こしている。この時も前回同様、六角勢は早々と甲賀郡や伊賀に逃げ込んだので、合戦らしい合戦も無く義材は近江の平定を成し遂げている。義材は近江一国を「御料国(将軍直轄領)」とし、義尚がなしえなかった寺社領の奉公衆への宛がいに成功した。

義材は京都に凱旋し返す刀で翌1493年、六角同様に幕府に敵対しつづけていた畠山基家を討つため河内に兵を進めた。将軍権力を一気に回復させようとしたのである。ところが京都に残っていた前の管領細川政元が突如クーデタを起こし義材を廃した。文字通りの下克上であった。このおかげで六角高頼は再び赦免され近江守護に復する。

9. 七夕歌合わせ(1477年)

富子とのロマンスを噂された後土御門天皇(当時36歳)の勅で、応仁の乱の最中ではあるが恒例の七夕の歌合せが行われた。足利義政・富子夫婦も召人として参席し、歌の判者は平安貴族の正統な流れを汲む当代随一の文人一条兼良(かねら)であった。

応仁の乱の最中、後土御門が内裏への延焼を避けて富子の室町第に避難したことがあった。その際富子との間で不義密通がなされ、その結果生まれたのが義尚ではないかとの疑惑が当時京市中を駆け巡っていた。そのようなことを背景に、歌合せでやり取りされた個々の歌の裏の意を忖度すれば次のような解釈も可能。

・最初の題「海辺七夕」のもとで、女房作(女房が代読する習わしで実は天皇作)として次の一首が詠じられた。

   
   「心なき海女も 今宵は藻塩草(和歌のこと) 掻き(書き)て手向けよ 星合い(七夕)の浜」
  
心無き海女は富子を指したもので、今宵は七夕なので心の通う歌を詠んで欲しいの意ととれる。

・二首目は義政の次の歌が詠じられた。    

   「カササギの翼にかけよ七夕の こよい行きあいの 天の橋立」

天皇と富子の密通を疑惑の目で見る義政は、男女の愛の通い合いを示す「心の橋」などは、天空のカササギの羽根に掛けてしまうべきだ、現世に置いておくのは迷惑である、との不満を示したものと取れる。「カササギの翼」は、牽牛・織女の愛を通じさせるため鶴が天空に羽根を並べて天の川の橋代わりとなるとの伝説を踏まえている。

・三首目は、富子の立場に好意的な邦高親王の作である。

   「浪 越さむ 恨みはあらじ七夕の 絶えぬ契りの末の松山」

かの二人(天皇と富子)には男女のけじめを越えたということはないという意味であろう。古今集の古歌「君を措(お)きて あだし心を我が持たば 末の松山 浪も越えなん」を意識した歌。

・その後、同じく富子に好意的な天皇の姉(安禅寺宮)の歌が詠じられた。

  「星合いの 手向けに須磨の海女ごろも 貸すてふことも まどをなるらん」

天皇と富子の間にもしそのような一夜があったとしても、今は「まどを」(間遠く)になっていることでしょうとの意か。「衣を貸す」とは、女が身にまとった着物を脱ぎ共寝の敷き布がわりに、あるいは上掛けにすることを意味する。

・第三ラウンドは天皇と富子に批判的とみられる二人の親王の歌合せが詠じられた。

  「けふ(今日)といへど 手向けは よそ(他所)の星嶋や あらぬ舵とる秋の舟人」

帝は海女に情感を込めた歌を送れと言っておられるが、呼びかけられている相手は宮中の者ではなく、どこか他所の美しい御殿におられる方(富子のこと)では無いでしょうか、どうも船頭の舵取りの方向が間違っているようですよ、と言っているようである。

もう一人の親王は、夜寒の人に衣を貸すということは誰でもやることだと富子は言っているが、男女の仲のことゆえ七夕の日だけのことでは無いでしょうと、詰問調の歌を詠んでいる。

  「人並みに袖をかすてふ(貸すというのは) けふ(今日)のみや 海女の衣も星合いの空」

・ここで満座注目の富子の歌が詠じられた。

   「心無き海女もや 今宵 人並みに 塩たれ衣 星に貸すらん」

表の意味は、冒頭の天皇の歌に応えて私のように武家の妻で教養も無い者も、七夕の夜にちなんで拙い歌を読ませていただきますといったことになろう。裏の意味は、男女の心の機微などは深くは判らぬ私ではありますが、今夜だけは高貴の方々並みにつかぬまの恋をしてみたく思います、ということになる。義政の歌が、恋のことなど天空の架け橋にかけてしまえ、としたのに対するあからさまな挑戦である。

・ここで再び義政の歌の番が来る。

  
   「待て暫し 萩刈るおのこ 一枝(ひとえだ)を折るだに 惜しき岡の辺の秋」

    萩を刈る男は帝、一枝は他人(ひと)の枝であり富子をさしていると見ることができる。義政は帝に対し「待て暫し」として密通を見過ごさないぞと言っているようである。

歌合せは延々と続き、また義政の番が来て次の歌が詠じられる。

・「いつの世の 庭の真砂のたねならん 苔むすいわほ 松ぞふりぬる」

この歌は一座に衝撃を与えたに違いない。「いつの世の」を「いつの夜の」に、「庭の真砂のたね」を「人種」に、「苔むす岩(いわほ)」を「子の成長したすがた」と読めば、わが子義尚はもしやしたら帝と富子の間の不義の子ではないかというニュアンスが浮かんでくるのである。

10. 近江における土地争論

(1)菅浦(すがうら)

北琵琶湖の葛籠尾崎(つづらおさき)の西の付け根に湖岸に沿って開かれた集落が菅浦(現伊香郡西浅井町)で、中世の惣村の古文書を今なお多く保存している。菅浦は、北の大浦荘との間で長い領域争いの歴史を有している。もともとは漁業を生業としていた菅浦であったが利用可能な土地が少なく、中世に入り菅浦から遠く離れた湖岸沿い東側(日差・諸河地域)の平地を開墾し始めた。この結果、大浦荘との間で紛争が持ち上がった。

史料によると菅浦の人たちが同地を菅浦の一部と主張し始めたのは、鎌倉期永仁年間(1293〜99)である。菅浦では遠く天智天皇の時代から、住民の一部が供御人(くごにん)として魚介類を天皇家に献上し続けてきたので、永仁の訴えではこの点を前面に立てた主張をしたが朝廷は認めなかった。

菅浦の人たちが朝廷を見限り次に頼ったのが延暦寺であった。紛争相手の大浦荘の領主は、延暦寺と犬猿の仲にあった園城寺の円満院であった。1305年(嘉元三)菅浦は係争地を延暦寺に寄付するとともに、同地の百姓はすべて日吉社の神人になるという行動に出た。しかしこの訴えもまた朝廷により却下された。延暦寺の檀那院が竹生島を管領し菅浦にも所領を有していたので、菅浦はこの檀那院を直接の領主として仰ぐこととし、これを根拠に延慶期にも訴えを起こした。このときも明確な裁定は出ずじまいで終わった模様である。

争論は南北朝期も続き、1445年には村落間の合力による連合勢力同士の合戦にまで及んでいる。菅浦方には八木公文殿・安養寺殿(以上は領主クラス)・河道北南・西野・柳野・塩津・春浦・海津西浜が、大浦方には海津東浜・今津・堅田・八木浜がそれぞれ合力している。菅浦は檀那院を引き続き押し立て最終的にはその主張が認められるに至る。

(2)菅浦の動きとちょうど同じ頃、湖西の山間部でも境界を巡る激しい争論が進行していた。安曇川の最上流部の葛川(かつらがわ)と真野川の上流域の伊香立荘(いずれも現 大津市)の間の争論である。

両地域とも中世においては、天台三門跡寺院の一つである青蓮院の領有下にあった。葛川は天台の修験道の霊場であり、伊香立は通常の荘園であった。その昔(859年)、相応和尚がこの地に分け入り滝で不動明王の姿を見て以来、不動明王が領有する「明王御領」とされ、天台の行者が毎年六月には蓮華会、十月には法華会で修行する道場となっており、蓮華会は今日も続いている。

やがて葛川にも徐々に人が住み着き、伊香立荘園の人も薪の切り出しで山奥へと進んだので争いが起き、神聖な霊場を葛川の住人が農地として開発することの可否を巡って論が展開された。1318年に至りようやく和議が成立し、葛川の住人は一定の生活領域を認められた。

11. 近江猿楽や坂本馬借

南北朝から室町時代にかけて、大和猿楽と並んで近江猿楽が活躍した。世阿弥の子が父の口述を筆録した「申楽談儀」では、近江猿楽は村上天皇の治世、秦氏安の妹婿である紀権守の流れを汲むものとしているが明らかではない。1400年頃の「花伝書」に「江州日吉御神事 相随 申楽三座 山階(やましな)・下坂・日吉」とあり、この三座が日吉社の神事猿楽に奉仕したとみられる。この三座(上三座)に対し多賀社の神事に奉仕する「みまじ・大もり・さかうど」の下三座があったと「申楽談儀」は記している。

日吉座の犬王道阿弥は義満の支持を受け、後の能の大成者である世阿弥にも大きな影響を与え、バサラ大名佐々木導誉も日本一とほめたと伝えられる。(現在でも日吉大社西本宮において毎年一月の大戸開き神事のとき拝殿で京観世流の奉仕で「日吉能」が行われている。)

古代・中世に馬で荷駄を運ぶ人たちを馬借、牛車で運ぶ人たちを車借と称した。活動範囲は大津及び三津(現下阪本)から淀・山崎におよび、いずれも水運と陸運の結節点であった。大津からは今道越(山中越)・逢坂越いずれを通るにしろ勾配があり馬で運ぶほか無かった。大津からは三条へ、三津からは北白川へ出るが、北から南へと勾配のある京都への運び込みには三津の方が有利であり、古代・中世を通じ最も大きい荘園領主であった延暦寺・日吉社を抱えていたこともあって、三津の方が大津よりも著しい発展をとげた。

三津を本拠とした馬借は専業として運送を行っていたものとみられる。最大の輸送品目はコメであった。15cころ馬借のからんだ騒動がたびたび記録されているが、いずれも原因はコメ相場やコメ売買に絡んだものであった。「日吉社 室町殿 御社参記」なる記録によれば室町時代初期に三津の馬借は馬二百匹、車二十両を動員できたとされている。

三津の馬借は記録されているだけで南北朝末期の1379年から1493年にかけて、都合15回、頻繁に一揆を起こしている。馬借が延暦寺やその僧徒に対して起こしたものと彼等の指示を受けて起こしたものとの二種類が見受けられる。

日吉祭は四月の初午の日に行われる神事で、鎌倉時代の社記によれば、日吉七社と下八王子社の計八社の神々を運ぶということで神輿とともに八頭の神馬が出たとされている。日吉の神々は延暦寺よりも遥かに古くから地域住民の地主神・産土(うぶすな)神としてあがめられていたわけであり、神輿と神馬という神の乗り物が二種類とり揃えられたということは、延暦寺と地域住民の妥協とも見られる。

神輿振りによる京都への示威運動が下火となるに従い馬借一揆が増えてくるが、延暦寺衆徒からみれば自分達の神輿振りに代わるものとして馬借蜂起を位置づけていたのかもしれない。そうでないと馬借蜂起があれほどまでに有効であった理由が見当たらないのである。三津の馬借が日吉社と密接な関係にあったことは、蜂起に際して馬借達が日吉社に籠もっていることからもわかる。彼等は「柿帷衆(かきかたびらしゅう)」と呼ばれ、延暦寺・日吉大社の支配下にあって独特の姿・身なりをしたアウト・ロー的な存在であったのではないか。

12. 蓮如の近江進出

近江に真宗が急速に広まったのは蓮如が登場してからであった。蓮如は苦労人であった。同じ親鸞の法脈を引く京都渋谷の仏光寺は、巧みな布教戦略で「民衆群集して雲霞のごとし」と言われたのに対し、大谷本願寺はさびしい有様だったという。

1415年、本願寺の寺務存如と下働きの一女性との間に生まれた蓮如は、赤貧の中で育ち父が正室を迎えた際には実母は出奔してしまい、継母の冷遇の中で育った。蓮如が心のよりどころとして唯一頼れたのは阿弥陀如来であった。蓮如の旺盛な布教活動は阿弥陀への恩返しに他ならなかった。蓮如は20代後半に最初の妻を迎えたが、貧困の中で次々と先立たれ、子も里子に出さざるを得ないほどであった。生涯に5人の妻を迎え13男14女をもうけたが、結果的にはこの子供達が教団の発展を支える原資となった。

父を継ぎ寺務に就任した蓮如は、本尊と対等の位置づけを歴代の高僧に与える当時の考え方を「親鸞は弟子一人も持たず」として否定し、親鸞の「四海の信心の人 みな兄弟」の言葉を引き、門徒達を「後同朋」「御同行」と呼んで対等の念仏者とみなし、かな交じりの御文で平易明快な布教をおこなったので広く庶民に受け入れられていった。

堅田はかっての山門領であり、この地への真宗の進出は簡単なことではなかった。基盤を築いたのは堅田本福寺の三代目住職の法住であった。蓮如は本願寺住持として、1457年法住の功績を認知している。

「大津史跡行脚」によれば堅田本福寺の「開基は善道といい、八幡太郎義家の弟加茂二郎義綱の末孫で三上山のふもとにある御上神社の神職をしていたが、故あって堅田に移り住み紺屋を営みながら本願寺第三代法主覚如の弟子となって寺を創建した。本福寺の住職は代々三上姓を名乗り現住職は二十代目である」とされている。

本福寺三世の法住は蓮如の全面的なスポンサーとなり、衰退していた本願寺を盛り立てた。法住は堅田商人の全国に及ぶ行商網を利用して東北から山陰地方にかけて十七の本福寺別院を建立したとされる。その一つが大津の本福寺で京都に近い事もあり堅田はこれを重視、明治4年までは堅田本福寺の住職が兼務していた。明治の廃仏毀釈を契機に堅田本福寺は手放し浜大津本福寺は独立した。現住職の三上元之氏は独立してから三代目である。

蓮如の肩入れもあって堅田門徒の底辺は広がり、油屋・麹屋・研ぎ屋・船大工などの手工業者が名を連ねた。蓮如は親鸞の教えに背く雑多な本尊類を焼却するという荒療治をやってのけたが、これが仏法の守護者を自任する比叡山を刺激し、山門は大谷本願寺の破却(寛正の法難)と堅田大責(おおぜめ)に出た。1465年正月、山門衆徒は比叡山西塔に集まり本願寺教団の罪状を挙げて糾弾し、本願寺の堂舎の破壊に及んだ。知らせを受けた堅田の門徒約二百人が本願寺に急行している。

本願寺を失い根拠地を失った蓮如は河内、摂津、近江守山を転々とした後、野洲郡の金森に入った。金森は中山道の守山から琵琶湖岸に向かう志那街道筋にあたり、蓮如は三年の滞在中、精力的に付近の布教にあたっている。山門は金森に対しても攻撃を仕掛けており、金森での合戦には堅田の門徒が応援に出かけるなど争いは次第に山門と堅田との間に移行していく。

山門衆徒は堅田の鎮守である大宮社(伊豆神社)に集まり門徒の追い出しにかかったので、門徒たちは本福寺に籠もって不穏な対立が続いた。法住は山門側に銭を支払って合戦を未然に防ぎ、更には叡山に登って根本中堂での評定の場で真宗の教義を説明し、近江での教化活動への了解を得た。金森はその後、信長の時に一向一揆の拠点となって敗れ、立派な寺内町の姿は消失してしまった。

堅田大責は1468年に生じた。湖上交通の上乗り権を有していた堅田衆が、室町幕府が造営中であった「花の御所」用材の運送船を襲ったことに端を発し、怒った幕府が山門に命じて堅田を攻撃させたのである。この動きを察知した法住は、山門支配からはずれ大津で道場を開いていた道覚のもとへ親鸞の影像とともに蓮如を避難させた。攻撃により堅田の町は全焼した。

堅田衆の特権であった湖上上乗権が山門支配の坂本に移されたため、一時沖ノ島に逃げ込んでいた堅田衆は坂本に対し波状攻撃を仕掛け、上乗権を奪回した。1470年には和議が成立し、堅田衆は莫大な礼銭を支払って堅田への帰住を許されている。

堅田大責の翌年、蓮如は園城寺の斡旋で南別所にあたる近松の地に坊舎を建立し親鸞の影像を安置した。顕証寺、またの名を近松御坊と呼ばれた。山門と抗争を重ねてきた園城寺の範囲内に寺院を建立したことにより、山門の真宗攻撃を抑制することになる。

1471年、蓮如は山門の手の及ばない新天地をめざして北陸に向かい、越前吉崎に腰をすえた。4年間の北陸での布教の拠点となる吉崎御坊である。蓮如の大衆化路線はやがて教団を戦闘集団化し一向一揆に突き進ませ、蓮如はこれを制御できなくなった。失意のうちに蓮如は1475年吉崎を離れ、1478年京都山科で本願寺再興に着手するが1499年山科本願寺で85歳で没した。

13. 伊庭氏と六角の葛藤、浅井氏の台頭

1493年、前の管領細川政元が将軍義材(よしき)を廃してクーデタに成功したころ、湖東では六角高頼は部下の守護代伊庭貞隆という獅子身中の虫をかかえていた。統治の実権を握る守護代が守護を権力の座から引きおろす例は越前の朝倉、美濃の斎藤と続出していた。

応仁の乱後、守護代伊庭の権勢は主家をしのぐ勢いをみせ領国内の訴訟沙汰に対しても六角家をさしおき独自に裁くまでになっている。六角高頼が伊庭を除くためには二度にわたる激しい争いを経ており、1502年に始まった伊庭との争いは1520年までの実に20年を要している。

六角がてこずった原因は伊庭が湖東の水運を握っていたことにある。神崎郡伊庭(現能登川町)は伊庭氏の本拠であり、琵琶湖までの水路が通じ、館跡と伝えられる地域には今なお水路が縦横に走っている。伊庭氏は内湖を隔てた対岸の安土にも早くから城を構えていたようで、安土には信長による築城以前から伊庭の城があったことになる。

安土山から10kmほど西に湖水に面した岡山(187m)があり、伊庭に味方する九里(くのり)という豪族が長い間たてこもり六角を悩ました。九里は補給を湖上から受けていたのでこれを断ち切るため六角は、摂津から二艘の大船をわざわざとりよせている。大船は淀川をさかのぼり、淀から陸路京都ー逢坂山ー琵琶湖と運ばれたという。六角が琵琶湖の制湖権を有していなかったことを物語る事例である。

伊庭との戦いに打ち勝つことによって六角氏は、守護としてはめずらしく戦国大名への道を歩み始める事になる。

六角高頼は1520年亡くなり跡は次男の定頼が継ぐが、六角氏は新たに湖北の浅井氏の台頭という課題を負うことになる。湖北では京極家の内紛が続いていたが、京極高清の代に高清をいただいて浅井亮政が湖北に覇権を確立しようとしていた。浅井氏は浅井軍丁野(ようの)郷(現湖北町)を根拠とする土豪であり、京極家の被官とはなっているが重臣の家柄ではなかった。亮政は重臣を押しのけ京極家の執権とも言うべき地位を獲得する。

1525年、浅井亮政は居城の小谷城に主君父子を迎え入れている。亮政の野望に危険を感じた六角定頼は同年、軍を北上させた。新興の浅井軍は無力であり亮政は主君父子とともに美濃に逃れている。

この頃六角氏は三好長慶(ながよし)に京都を追われた将軍足利義晴父子を支援してきており、湖北での浅井掃討に専念することが出来ず、何度も浅井亮政勢に大勝するが、亮政はその都度返り咲き基盤を固めていった。

因みに当時、近江を転々移動していた将軍義晴は1532年、武佐の長高寺からきぬがさ山の麓の桑実寺に移っている。桑実寺は寺伝によれば、聖徳太子の開創になる寺院で、湖上に出現したと伝える薬師如来像を本尊とする天台宗の名刹、「桑実寺縁起」は、同時に身を寄せた義晴の命により当時の誉れ高い絵師、書家が製作にあたっている。

互いに覇を競い合った浅井亮政、六角定頼はやがて共に世を去り、子、孫の代で混乱が起きる。浅井家では後継の嫡子は指導力が無いとして国人達により次の代へ家督を無理やり譲らされている。六角家では孫の義治の代で家臣達が反発し浅井と通じて叛乱の構えを示したので、義冶は居城観音寺城を逃れ蒲生の蒲生定秀のもとに走り、蒲生氏の仲介でかろうじて沈静化した(観音寺騒動1563年)。

1568年9月、上京を目指す信長は湖北浅井長政の協力を取り付け軍馬を近江に進めた。六角氏は観音寺城や箕作山城に拠って信長の軍を迎え撃とうとするが家臣の多くは信長方に通じており、勝負は数日を経ずについてしまった。数世紀にわたり続いた佐々木六角の時代は終焉を迎えた。

14.室町後期の文化

鎌倉末期から南北朝にかけての逞しいバサラ文化を生んだ無礼講の気風は、15cの文化風土にも受け継がれ酒宴の文化を生んだ。連歌・能・茶・立花などこの時代を代表する文化芸能の多くが酒宴とともに発達した。貴人を歓待するための饗膳はもとより猿楽や座敷飾りにも莫大な費用が投じられた。このような文化空間が豪奢な「書院の茶」の舞台となった。

銭そのものを贈り物に使う事が習慣として定着したのも室町時代である。外国には例を見ない習慣である。銭を贈り物にする場合、まず金額を書いた折り紙(目録)を先方に送り、現金は後日渡しにするのが一般的であり、折紙銭(おりがみせん)といわれた。幕府は受け取り事務や現金回収も行う折紙方という役職まで設けている。義政の時代には折紙銭を財源として期待する傾向が進み、幕府財政の悪化を象徴した。

義政の時代には枯淡美の志向も確立した。茶人村田珠光が知人に書き送ったと伝えられる「心の文」では「この道の一大事は和漢の境をまぎらかす事、肝要、肝要、ようじんあるべき事なり。ひえ(冷え)かるる(枯るる)と申して、初心の人体(初心者)がびぜん(備前)物・しがらき物などをもちて、人もゆるさぬ たけくらむ事(「たけくらむ」とはその道を極めること、例:武道に長ける)、言語道断なり。かるるという事は、よき道具を持ち、そのあじわひをよくしりて、心の下地によりて たけくらみて後まで冷えやせてこそ面白かるべきなり」とされている。

「和漢の境をまぎらかす」とは、唐物を愛しながらも日本独自の美意識で王朝文化と調和・融合させた室町人の独特の才能をいう。当時、和歌と漢詩の受け応えで進行する和漢連句が人気を集めたのもこの例である。彼らはまた「びぜん物・しがらき物」などの和物に究極の美を見出そうとした。それまでは青磁・天目などの唐物が幅を利かしていた。雪舟が中国水墨画の模倣を脱して日本独自の水墨画の世界を開拓したのもこの時代である。

枯淡美は「冷える」「枯れる」といった概念で表現された。世阿弥は「能のさびさびとしたる中に なにとやらん感心のあるところあり。これを冷えたる曲とも申すなり」と語っている。王朝的美意識であった「幽玄」にかわり、義政の時代は「冷える」が文化芸能の世界で有力になった。

連歌師心敬はこの時代の文化的リーダーであった。かれの「ひとりごと」には「氷ばかり艶なるはなし。苅田の原など朝薄氷、ふりたる檜皮(ひわだ)の軒などのつらら、 枯野の草木など露霜とじたる風情、おもしろくも艶にも侍らずや」と記し冬枯れの野に究極の美を見出した。但し初心の人体(初心者)が背伸びして「冷える」「枯れる」と称することを戒めてもいる。最高の唐物を持ちその良さを本当に理解した者のみが、初めて和物の良さを知りうるとの考え方である。

義政は早くより隠棲の願望を持っており、1483年、東山山荘(銀閣寺)に移り住む。理想とした草庵とは程遠い大建築であり、体質的に王朝文化と完全には手を切れなかったといえる。この時代を代表した水墨画家は小栗宗湛と雪舟であるが、義政は雪舟の力強い筆致と観る者を圧倒するような構想力よりも、宗湛の平明で柔らかな画風を好んだ。宗湛は御用絵師となり栄達の道を歩んだが雪舟のように自由な絵は描けず画印を押すことも許されなかった。雪舟は野に在って身の不運をかこったが、自由闊達な絵を描くことが出来た。御用絵師に画印が許されなかったことは、宗湛の絵の大半がその後散逸してしまったことと関係している。


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