1568年、35歳の信長は越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃に迎え9月、室町幕府再興を名分にかかげ上洛の途についた。美濃・尾張・伊勢の大軍を率いて湖東を南下すると敵対していた六角父子は戦わずして敗走、観音寺城は接収された。
京都に入った信長は三好三人衆の城を攻めるため桂川を越えて引き続き軍を進め、長岡京・高槻・西宮の城を攻略し三人衆を敗走させた。堺の豪商今井宗久はこととき信長に謁している。10月には京都に戻り義昭は念願かなって第15代将軍になった。信長はその9年前にわずかな供をつれて上洛している。「信長(しんちょう)公記」は、京都・奈良・堺を見物して13代将軍義輝に面会したと記している。その目的ははっきりしないが、独自の天下統一の政権を志向しつつ、将軍や朝廷はできるだけ利用しようとしたことは確かである。
この時期、武田信玄も信長に近い発想を持っていたと思われる。単に領国を守ることを念頭に行動する浅井・朝倉とは決定的に異なる。信玄は公家の娘を妻とし、本願寺・一向一揆と結び、日本海側との結びつきを求めて信濃に侵攻し、次いで駿河征服を目指し、水軍を充実させ、京都を目指して西上を試みたところにそれが窺える。但し信玄は信長に出遅れ、地理的位置も不利であった。
信長が上洛を果たした最初の戦国大名になったこの段階で、単に将軍を助けて幕府の復興を目的としたにとどまったのか、それとも独自の天下統一政権を目指していたが周囲にはそのような意図がないように振舞ったのかについては、説が分かれる。13代将軍義輝は1565年、三好三人衆らの京都襲撃で奮戦の末、討たれており義昭が将軍職に就くまでの三年ほどは将軍不在の状態であった。ちょうどその頃、信長は麒麟の麒の字の草書体を花押に使い始めており、麒麟は天下が治まるときに姿を現わす想像上の動物であることから、信長はこの頃から天下を目指し始めたとの見方が有力である(佐藤進一氏の研究)。信長は1567年、美濃稲葉山城を攻略し美濃を支配下におさめるがこの頃、「天下布武」を刻んだ印を使い始める。このことも天下制覇の意図を決意したことの表れと見ることができる。
将軍義昭は信長の真意を見破れず、信長に副将軍か管領職を恩賞として提示し畿内五カ国の知行権も与えようとするが、信長は堺と大津・草津を支配すること以外は関心を示していない。
信長が天下を取る動きをあらわにしだすとその勢力拡張に飲み込まれまいとする者が出てくる。その一人が越前の朝倉義景であった。信長にとっては、京都と根拠地の美濃・尾張の間に横たわる近江を押さえ、岐阜城との連絡と補給を確保するることがどうしても必要であった。信長は二度にわたり、近江で危機的場面に遭遇しており、その失敗から学び取った教訓は、「近江の戦略的重要性」であった。安土築城による近江制圧と統治はその論理的帰結であった。
第一回目の失敗は、湖北の盟友浅井長政が1570年4月末、突如叛旗を翻し越前の朝倉氏攻略中の信長が腹背に攻撃を受けた時である。朝倉・浅井同盟の成立である。信長は敦賀の金崎城を秀吉に守らせ、命からがら朽木谷を経て京都へ逃げ帰り、その後やっとの思いで美濃にたどり着いた。
第二回目の失敗は同年8月、三好三人衆を討つため信長が摂津に出陣した際、浅井・朝倉勢が湖西路を南下し延暦寺と連携して京都を窺う状況となった場面である。摂津から取って返した信長は滋賀郡の宇佐山城で4ヶ月間、釘付けにされ進退窮まっている。
1570年(元亀元)4月の越前出兵は日本海水運と港の掌握も目的のひとつであった。信長は若狭の小浜港と近江の今津を結ぶ九里半街道を早くから支配下に入れており、越前侵攻では安曇川から若狭に入り敦賀港の東北に位置する金崎城などを攻略し、木芽峠に向かうところで浅井氏の挙兵を知り撤退した。敦賀には高島屋・道川(どうかわ)氏・田中氏などの有力商人、廻船業者もおり、小浜・三国湊と並んで蝦夷・山陰との物流の拠点であった。
朝倉攻めに失敗し美濃に逃げ帰った信長が、体勢を立て直して岐阜を再度出発したのは1570年6月であった。家康も同盟軍として出陣して来た。近江に入った信長は伊吹山の裾を通る北国脇往還を北上し、浅井の本拠地小谷城に攻めかかる。しかし小谷城の構えが固いと見るやわずか一日で兵を返し、南の横山城(現在新幹線の横山トンネルがある)攻撃に全力を傾注した。横山城は南の佐和山城と小谷城の中間にあって両城をつなぐ役割を持った要衝であり、浅井の力をそぐにはこの横山城を落とすことが有効と信長は考えたのである。
浅井側は信長の読み通り、横山城への攻撃を座視しているわけにはいかず、朝倉の支援を得て小谷城を出て南下、北上してきた織田勢と姉川の河原で相まみえた。6月28日の戦いは織田・徳川方の勝利に終わり、浅井・朝倉勢は小谷・佐和山両城に逃げ込み再起を期すことになった。信長は「大利を得候。野も畠も死骸ばかりに候」と京都に書き送っている。
信長は返す刀で横山城を落とし木下秀吉を配して北の小谷城に備えると共に、南の佐和山城に対しては麓の百々屋敷に丹羽長秀を置き封じ込めの手配を打っている。小谷城と佐和山城に浅井勢を分断しておけば、とりあえずは京都への道を確保できるとみたわけである。
姉川の戦いで破れたとはいえ浅井・朝倉の反信長同盟の成立は、阿波に逃れていた三好三人衆に勇気を与え、彼等は摂津に入って大坂本願寺の西方の城に陣取った。信長はこれを攻めるため8月岐阜を出発、9月には包囲し激しい攻撃を加えた。
信長の包囲網の中にあった本願寺の顕如は、三好衆の城が落ちれば次の標的は本願寺となろうと危機感を強め、諸国の門徒・坊主衆に檄を送り、浅井長政からの同盟申し入れに応じる返書を送った。9月12日、摂津の信長の陣に本願寺門徒が襲いかかり、ここに一向一揆と信長の11年にわたる石山戦争が始まった。
本願寺の蜂起に呼応して朝倉・浅井軍が動いた。信長は摂津出陣に際し浅井・朝倉の反撃に備えて二万の軍勢を近江に残し置いたという。しかし浅井・朝倉は信長が考えるほど甘くはなかった。湖東を南下するであろうとの信長の読みの裏をかき、浅井・朝倉勢は湖水を渡って西近江路を京都目指して南下し始めたのである。高島から南にかけての湖西も本願寺門徒が多い地であり、彼等の支援を受けつつ進軍したのである。
浅井・朝倉勢が京都をうかがう形勢となるに及び、摂津攻撃を中断して急いで京都に戻った信長は反撃のため逢坂越えに軍を進めた。ところが浅井・朝倉勢はさしたる抵抗も無く撤退を開始し、信長はこれに誘い込まれるように湖西の滋賀郡までいたることになる。これが浅井・朝倉の巧みな戦略であったことを信長が悟ったのは、彼が滋賀郡の宇佐山城に入ってからのことであった。浅井・朝倉勢は、北の壺笠山、青山といった延暦寺領域内の山々に陣をとり、はるか頭上より宇佐山城の信長を見下ろすことになったのである。下手に軍を京都に返せば敵の猛追撃は目に見えている。信長は進退きわまってこの小さな山城に4ヶ月も籠城を余儀なくされるのである。信長は没収されていた寺領の返還を餌に、延暦寺を味方につけるか少なくとも中立を守るよう働きかけ、このいずれにも応じないなら全山を焼き払うと脅した。しかし延暦寺はこれを無視し、浅井・朝倉に加担することで反信長の旗印を明確にしたのであった。
信長は湖西から今道(現山中越え)を経て京都に至るルートに決して無関心であったわけではなく、今道の近江への出口にはいち早く森可成に宇佐山城を構築させていた。しかし滋賀郡一帯は山門の支配する守護不入の掟に守られた治外法権の地であり、その頃までは戦略上のいわば空白の地であった。浅井・朝倉は延暦寺の支援を取り付けることにより、信長のすきを突くことに成功したといえる。
しかし浅井・朝倉は、信長を倒す千載一遇のこの好機を12月の到来と共にむざむざと逸してしまう。雪の季節の到来は北国からの補給路の断絶となるので、浅井・朝倉は将軍義昭らの斡旋を受け入れ、両軍共に陣を引くことでこの好機に終止符を打ったのであった。
1571年(元亀二)に入ると信長は「近江の道」の確保に全力を注ぐ。2月佐和山城に籠もっていた浅井の武将磯野員昌(かずまさ)が信長に降り、北の小谷城は完全に孤立した。8月には湖北の一揆勢と戦い、ついで湖東南部に進み一揆の立て篭もる金森寺内を攻めて下し、美濃と近江を結ぶ道は信長の支配下に万全となった。先の滋賀の陣での和平のあと宇佐山城に配されていた明智光秀は、地侍の調略に努め、この地域の制圧を着々と進めつつあった。光秀による地域の地固めを見届けた信長は1571年9月、延暦寺の焼き討ちに踏み切った。近江から京都への諸道を確保することなくして京都を押さえることは出来ないと悟った信長は滋賀郡に君臨する延暦寺の壊滅を決意し実行したのである。それは4ヶ月にわたるすさまじい焼き討ちであった。根本中堂初め殆んどの堂宇は焼き払われ、僧俗男女三〜四千人が殺されたと史書は記す。その直後、信長は明智光秀に坂本城を築かせている。
坂本城と佐和山城は琵琶湖を東西両岸から押さえるものであり、信長は陸路だけでなく水路も支配下に置いたのである。坂本城は湖岸に立地し、佐和山城も当時は内湖により琵琶湖につながっていた。後のことになるが信長はしばしば坂本と安土の間を船で行き来しているし、千利休も安土に行くのに坂本から御座船を用いている。
1572年に入ると本願寺・信玄・浅井・朝倉が中核となる反信長同盟が結成され、本願寺は三好・細川の抱きこみを進め、奈良の松永も加わり、信玄は比叡山とも手を結ぼうとしていた。3月、上杉謙信は、信長がこの危機を脱するためには比叡山の再興を打ち出し、浅井と和睦することが必要と説いた。その上で謙信・信長・家康の連合で信玄を討てば良いと信長に勧めている。信長は11月、謙信との同盟を成立させ武田領への攻撃を求めたが、謙信は北陸での一向一揆や関東での武田と組んだ北条の攻勢等で動けなかった。
信玄は9月、別働隊を徳川領の三河東部に先発させ、自らは10月甲府を発して南進し、遠江の二俣城(天竜市)を落とすと、浜松城を攻撃することなく城の北方を西進して三方が原の台地に達した。台地に家康を誘い出し一気に勝敗を決し西上を急ごうとの賢明な戦略であった。信長の援軍三千、家康軍八千に対して武田軍は二万数千であり、徳川軍は12月22日、総崩れとなり打ち破られた。ところが湖北に在った朝倉勢は冬の到来で12月初帰国を始め、湖北の守りを緩めてはならないとする信玄を怒らせた。信玄や本願寺顕如はその後も再出馬を促したが朝倉義景は動かなかった。
それ以上に痛手となったのは信玄の病気であった。信玄は翌1573年早々には三河に入り長篠まで進んだが病状が相当悪化していたらしく西進を諦め、帰国途中の4月、信濃伊那谷の駒場で53歳で生涯を閉じた。信玄の死去は伏せられたが4月中旬には噂が上杉方に届いている。
1573年5月、信長は佐和山城の麓の松原浦においてかってない大船の建造にとりかかった。長さ30間、幅7間、櫓を100挺立てたものだったという。その目的は将軍義昭との関係悪化に伴う戦いを予想しての琵琶湖の制海権確保にあった。三方が原における信玄の勝利に喜んだ義昭は2月、近江の六角氏残党など反信長勢に蜂起を命じ、4月には信長自身、義昭の籠もった二条城を包囲するといった事態に及んでいた。一旦は勅使の仲介で休戦状態になったが、義昭が再度挙兵した場合には湖を境として京都への防御線を引くであろうと信長は考え、そのような防御線を突破して大軍を一気に美濃から京都に進める手段として大船建造を企てたのであった。
信長の判断は実に的確であった。建造が完了した7月義昭は宇治で挙兵し、宇治川中州の城に立て籠もった。信長は直ちに岐阜城を夜出発して佐和山城に軍を進め、松原浦の大船群に乗り込ませて湖水を一直線に坂本に渡し、翌日には京都に入ったのである。信長の電光石火の進軍を前に義昭の挙兵は失敗に終わり、室町幕府はここに滅亡した。
信長は休む間もなく浅井・朝倉攻めに入る。この時は、船を使って湖からの攻撃も行っている。将軍義昭の没落は湖北の諸勢力に動揺を与えており寝返る者が続出した。今度も大軍を率いて浅井救援に駆けつけた朝倉勢は直接攻撃を受けると撤退に転じ、一乗谷に逃げ帰った義景は一族にも裏切られ8月自刃に追い込まれた。五代、百年に及ぶ戦国大名朝倉氏はここに滅亡し、一乗谷も灰燼に帰した。
信長はただちに近江へ軍を返し浅井攻めを続行した。8月27日夜、秀吉が小谷城の京極丸に攻め上り、浅井久政と長政を分断するとまず久政が討たれ、翌日長政は激しい戦闘の末自刃し浅井氏も滅んだ。信長は毛利などに宛てた書状で、信玄や朝倉、将軍義昭などが敵対したのは浅井父子のせいだから一方ならず遺恨深重であったと述べている。長政の長男万福丸は関が原ではりつけにされ、お市と三人の娘は信長のもとに引き取られた。
反信長同盟はここに解体、浅井領はその討滅に功のあった秀吉に与えられ、秀吉は初めて国持ち大名となり居城を長浜に築く。
一向衆は1570年の大坂本願寺の挙兵以前にも1488年の加賀の一向一揆、1563年の三河一向一揆などの歴史をもっている。長島は伊勢国に属するが、信長が伊勢を支配化に収めた後も長島願証寺を中心に一向宗の抵抗は続き、1567年には信長に敗れた美濃の斉藤竜興が舟で長島に逃げ込み保護を求めたりしている。
長島の一向一揆は1570年(元亀元)11月、近江での一揆と浅井・朝倉勢の攻勢に呼応して生じた。翌年比叡山焼き討ちの前に信長は長島を攻めたが歯が立たず敗退している。1574年7月に信長は大軍もって再度攻撃し、海上封鎖も加えて兵糧攻めにした上、ようやく9月に制圧した。
1574年(天正二)正月には越前で一向一揆が発生し信長の支配を覆した。信長は1575年8月、三万の大軍で岐阜を発し、海上からは若狭衆・丹後衆の数百艘が制圧のため越前に押し寄せた。3〜4万ともいわれる殺戮の末、一揆は同月制圧された。
これに先立ち1575年(天正三)5月、家康からの救援の頼みを受けて信長は岐阜を出発し三河長篠に出陣した。武田勝頼が長篠城を奪回せんとして大軍で包囲したのである。信長は千挺ほどの鉄砲隊を編成し、幾波にも押し寄せる武田勢を撃退した。武田勢は敵方の兵力を把握できずに大敗し退却した。
後に作られた歴史小説「信長記」(小瀬甫庵)には三千挺の鉄砲隊を千挺ずつ三隊に分けて交替で撃たせたという三段撃ち戦法が登場するが、これは現実離れしており創作とみられる。ところがこのフィクションがその後もいくつかの著作に引き継がれ、明治36年の参謀本部「日本戦史・長篠役」にも受け継がれて定着していったようである。
1576年(天正四)正月に信長は安土城の構築を開始した。早くも2月末には岐阜城を長男に譲り信長は新城に入っている。安土は近江の陸路・水路を支配する上での要衝であり、佐和山城・坂本城を統括することを目的としていた。安土も当時は山麓まで「大中(だいなか)の湖」とよばれた内湖が及んでおり琵琶湖と直結していた。安土城はまた、かってない規模で石垣を多用した城であった。鉄砲という新しい武器に対処するためであった。
安土築城は、信長の政治構想の進化とも深く絡んでいたとみられる。築城の前年(天正三)、信長は越前の戦を終えて上洛した際(11月)、それまで拒んできた官位を朝廷から受け、その上で同月、嫡男信忠への家督譲与を行なっている。信長は領国を持つ他の諸大名とは質的に異なる全国的支配者のレベルに自らを押し上げたわけであり、その地位を認知させるものとして朝廷から授与される官位を利用し、その権威を天下に示す道具として安土城が必要とされたのである。天正三年は、信長が戦国大名の一人から天下布武の覇者へと政治的に脱皮した重要な年であった。その後、天正六年(1578)には右大臣の職を辞し以後官職に就かなかった。このことをどう解釈するかには諸説があるが、信長が次の段階の政治構想を模索していたことを暗示している。
1577年、信長は安土城下に対し13か条からなる定を下した。楽市・楽座、馬の売買の安土への集中、東山道往還の商人の安土での宿泊、他国からの移住の奨励などが含まれていた。前年には建部の油座の権利を安堵しており信長は座を全廃したわけではない。楽市・楽座は特定の市場や都市において認めたものである。
寒村に過ぎなかった安土には、当初は士卒は単身赴任で居住したが、これを知り怒った信長は、士卒の妻子のいる尾張の私宅を焼き払わせて安土に強制的に移住させている。安土はもともと麓一帯は湿地帯であったが、城への舟入路を掘削して出る土砂を埋め立てに使い居住適地の造成も行っている。
このようにして城下は年を追うごとににぎわいを増していった。年中行事も定着していく。正月には信長臨席のもと松原の馬場で盛大な馬ぞろえ(軍馬を集め優劣や訓練を検分すること)を行い爆竹を鳴らす行事(左儀鳥)も恒例化した。7月には盂蘭盆会が死者の霊を弔うために催され、上は天守から下は湖面の舟にまで火が灯され見事であった。
琵琶湖や日本海の物流ルート支配とならび瀬戸内海の物流支配も信長にとっては重要であった。その東の拠点堺の繁栄は全国に知れ渡っていた。フランシスコ・ザビエルは「堺は日本の最も富める港にして国内の金銀の大部分が集まるところ」と記している。堺を屈服させた信長は、清洲城下の町人で信長に幸若舞を教えたとされる松井友閑を代官(堺政所)に任じて堺の町人との意思疎通に意を用いた。
豪商今井宗久は「薬屋宗久」とか「納屋宗久」と呼ばれた。納屋(倉庫)を持ち、薬や鉄砲・火薬、虎皮などを扱う貿易商で、信長により代官に任じられ税の徴収などにも関わった政商である。同じく貿易商の長谷川宗仁とともに但馬の生野銀山を信長の支配下に置く工作にも関わっている。銀は当時貿易決済用に不可欠であった。
千利休は今井宗久や津田宗及とともに信長の茶会の常連であり、後の秀吉による登用につながる。
1575年越前一向一揆が壊滅させられ本願寺が加賀二郡を失ったことは痛手であった。信長にとっては本願寺は瀬戸内海・中国地方進出を阻む最大の敵となっていた。1576年(天正四)、荒木村重・明智光秀らに大坂攻めを行わせたが一揆勢がむしろ攻勢に出たので信長自身が出陣し足に鉄砲傷を負いながらも押し返し、海上封鎖などを強めた。
本願寺は毛利輝元と結び、籠城のための兵糧を海上から確保しようとした。これに応えて村上水軍らが乗り込んだ毛利方の7−8百艘が大坂目指して進攻し、木津川口での信長方3百余艘と戦闘の末これを破り、兵糧を届けて引き上げた。毛利はそれまで信長と友好関係を保っていたが、信長の勢力が中国地方に迫るとともに1576年、反信長に転換した。播磨や山陰での信長側の反毛利工作や前年の秋からの光秀の丹波侵攻の本格化が影響したとみられる。毛利の決断は島津・伊予河野氏・上杉謙信・武田勝頼などに伝えられた。一連の動きの背後には、流浪中の元将軍義昭の執拗な働きかけもあった。
本願寺・毛利・上杉の反信長戦線のもとで、毛利は播磨に侵攻して上月城を攻略したが姫路で退けられた。能登平定を進めていた謙信は1577年堅固な山城の七尾城を攻略、加賀に進出し北上してきた柴田勝家らに金沢の南方(湊川)で大勝したが、翌1578年病死した。1577年には紀州雑賀衆や根来寺の一部が信長に内通、信長は紀州雑賀に出陣し降伏させている。
1578年(天正六)には信長方の別所長治(播磨三木城)や荒木村重(摂津一国の大名)が寝返り本願寺・毛利と結んだのを機に、6百余艘の毛利水軍が再び兵糧米を積んで木津川口を目指した。前回の失敗に懲りた信長は志摩の九鬼嘉隆、伊勢の滝川一益に命じて、鉄板で装甲し大砲三門を積んだ大船を計七隻作らせて大坂に回漕し海上封鎖に当たらせていたので、毛利水軍は大坂への補給が出来ず引き返した。
荒木村重や別所長治らは毛利軍の東上を期待して挙兵したが、信長は豊後の大友宗麟を通じて毛利の背後を脅かすことに成功し、備前の宇喜多直家も秀吉の工作で寝返り、丹波・丹後は光秀に押さえられ、動くに動けなかった。結局1580年(天正八)別所は切腹し、本願寺が講和で屈服、村重は毛利領へ逃れた(村重はその後、堺へ移り茶人として秀吉に仕えている)。
信長は天皇を利用して本願寺を講和に引き出すことに成功した。「本願寺の赦免のこと、叡慮として仰せ出さるる」との形をとり、本願寺を悪としてその罪を天皇が許し、信長は正義の側に立つとの巧妙な手法であった。顕如も信長ではなく天皇の命に従うとの形をとることで門徒を説得しやすいと判断したのである。世俗の権力に従うよう蓮如以来門徒に説いてきた「王法為本」の本願寺の特質が示されている。顕如の子教如はこれを不満とし雑賀と淡路の一揆衆とともに抵抗を続けたが長くは続かなかった。信長は周辺の砦を次々と落とした上で、抵抗勢力の退去を許し、火をつけられた伽藍は燃え落ち、蓮如以来85年の歴史を刻んだ本願寺と寺内町は灰燼と帰し、足掛け11年に及ぶ抵抗の戦いは終結した。
1581年(天正九)秀吉は因幡鳥取城攻めに二万の大軍を率いて出陣した。難攻不落の山城であり、秀吉は事前に若狭の商人を使って米を買占めさせ兵糧攻めに出た結果、毛利方は降伏した。このように際立つ秀吉の才覚に比し、大坂本願寺攻めを担当した佐久間信盛父子は、いたずらに日を送って戦功がなかったとして信長により改易・追放処分にされている。
信長が中国・四国の平定に専念するには背後の不安を除いておく必要があり、1582年(天正十)武田勝頼を攻める。勝頼の義弟木曽義昌が工作により寝返ったのを機に駿河口(家康)、飛騨口(金森長近)、伊那口(信長・信忠)から出撃した。
勝頼は信長の侵攻に備え韮崎に新府城を築き移動を終えたばかりであった。勝頼は信長を迎え撃つべく弟の守る高遠城めざし諏訪に進んだが、自軍の城で寝返ったりするものが多く、新府城に戻り籠城戦に入ることを余儀なくされた。ところが堅固な高遠城が一日で落ちたことを知った新府城の城兵は慌てふためき勝頼を見捨てて逃走、勝頼は城に火をかけ夫人等と逃げるが追手に取り囲まれ自害し果てた。名門武田家の滅亡である。助命を拒み死を選んだ勝頼夫人(19歳)は「黒髪の乱れたる世に はてしなき おもいに消ゆる露の玉の緒」という辞世を残している。
1582年4月安土に凱旋した信長は、信長を太政大臣か関白か将軍にしようとの天皇の勅使と会うが返答を与えずに帰している。秀吉は備中の高松城(現岡山市)を水攻め中でありこれに対し毛利の急援軍が派遣されたので、信長は自身出陣して毛利方と決戦しこの機に九州まで平定しようと考え、5月29日小姓衆わずか2−30人のみ引き連れて上洛した。6月1日には宿所の本能寺に博多の豪商島井宗室らを招き茶会を催した。信長は茶器を披露し得意満面であったという。毛利服属の先にある九州と貿易港博多の掌握のための手を打っていたのである。夜には囲碁の名人本因坊算砂が碁の相手をし、その後信長は最後となる眠りについた。
信長の先陣を命じられた光秀は5月26日坂本城から丹波亀山城に移った。叛乱を計画していたであろう光秀は戦勝祈願のため愛宕山に参詣し二度、三度とくじを引き、同じく戦勝祈願のための連歌会を催した。光秀は発句に「ときは今 あめが下知る五月哉」と詠んだ。光秀は美濃の守護土岐氏の出であり「とき」は光秀自身をさし自分が天下を治める時だとの決意を示したものだと見られている。
6月1日出陣した光秀は途中で一門に決意を打ち明け全軍を京都に向かわせた。2日未明京都に入った光秀軍は本能寺を取り囲み鉄砲を打ちかけるなどして攻め、信長は応戦中に鑓傷を受け奥に退き炎の中で自刃し49才で果てた。安土城の留守居蒲生賢秀は城にいた信長の妻妾を連れ自分の日野城に避難した。
本能寺の変の九年前に信長の挫折を予言したのが安国寺僧恵けいである。義昭の帰洛交渉のため毛利輝元に派遣された帰路、恵けいは国元にあてた書状に次のように記している。
「信長の代、五年、三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申し候。さ候て後、高ころびにあをのけにころばれ候わんずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候。」
光秀が信長を本能寺に襲撃、自害させてほどなく6月15日、光秀が山崎の戦のあと土民に殺されたことを知った女婿明智秀満は、大小二つの天守を持つ坂本城に火を放った。坂本城を焼き尽くす火の明るさは遠く奈良からも望見することが出来たといわれる。ちょうど同じ頃、安土城を焼く紅蓮の炎も湖水を染めていた。安土城に火を放ったのは誰かはわからない。豪壮華麗を並び称された両城は、あたかも互いに最期を競うかのように焼け落ちたのである。
信長は天皇への謁見を願い出た宣教師達に対し「予がいる処では他人(天皇)の寵を得る必要がない。なぜなら予が国王であり内裏である」と延べており、朝廷の官職体系になんとかして取り込もうとする天皇側の働きかけに応じなかった。宣教師フロイスによれば、信長はみずからが神として万人に礼拝される存在になることを望んでいたという。フロイスに対しては、日本を統一した後に大艦隊を編成して中国を征服するとも述べている。
信長は天正九年(1581)には天皇に譲位を求めており、安土城の自分の居所よりも下段にある本丸御所に新天皇を迎える算段であったろうと思われる。地上の神たらんとした信長の夢は安土城炎上とともに消え去った。