1999.10.10 七尾 記
いわゆる「学級崩壊」が日本でも大きな問題になってきています。先生を尊敬できないとかいろいろな理由で生徒がキレてしまい、授業中でも勝手に教室から出ていってしまうのです。不登校生徒は、未熟な自己の世界にこもって妄想をたくましくし、社会への反発と敵意を膨らませ、極端な場合には暴力・犯罪・破壊行為に走るのです。
このような日本の状況を、現在、筆者が滞在中の米国の人達に話すと彼らも日本と大変似かよった問題を抱えているというのです。米国では銃の入手が比較的簡単だとか、人種問題があるとか、日本にはない事情もありますが、互いに抱えている教育問題の根本は同じだという感を深くしています。
冷戦が終わった今、米国民の政治的関心がテロ対策や治安などの国内問題に向かいつつあるなかで、教育問題の深刻さへの関心も急速に高まっているようです。来年の大統領選挙では、候補それぞれの教育問題への取り組みぶりを見て投票態度を決めるという人も多くなりそうです。 女性で候補に名乗りをあげているエリザベス・ドールさん(共和党、レーガン政権の時の運輸長官、夫のボブ・ドールは1996年、クリントンに大統領選を挑み敗退)は、「全米の高校生の4分の1が読み書きができない。校内暴力も深刻化している。校内の秩序と規律を再建しなければならない。学校にコンピュータを設置することよりも、父兄に教育の場に参加してもらうことのほうがはるかに大事だ」と力説しています。
われわれ日本人の記憶にもまだ新しいことですが、米国では、去る4月、コロラド州のコロンバイン高校で生徒による銃乱射事件があり多くの痛ましい犠牲者が発生しました。この事件は米国社会の中枢に強い衝撃波を走らせました。事件がデンバー市郊外の比較的裕福な中産階級以上の人の住む地域の高校で発生したということです。これまで米国では、校内暴力事件は往々にして人種間の憎悪や、黒人家庭の貧困などに起因することが多く、中産階級以上の住む白人地域での教育はまずは大丈夫との期待が抱かれていたと思うのですが、今回の事件でこのような期待は完全に打ち砕かれてしまったといえます。
このコロンバイン事件を契機として、全米各地のコミュニティや学区では、事件発生の原因や対策をめぐって真剣な議論が展開されはじめました。テレビも、専門家を動員しての討論会などの番組を頻繁に組んでいます。最初のうちは、銃の入手が簡単すぎることがいけないのだとか、教職員組合、州政府、連邦政府などが悪いのだとかといった責任を誰かになすりつける議論がかなりありましたが、最近ではこれはもっともっと根の深い問題で、父兄やコミュニティなど自分たち自身の問題だとの認識に変わってきているようです。
というのは、これまで類似の事件を起こした生徒たちの動機を子細に調べてみますと、これは大変複雑で根の深い問題で一筋縄で行かないということがわかってきたからです。事件を起こした生徒たちは一様に、「学校が楽しくない、なんとなくイライラする、先生が冷たく自分は無視されている、フットボールなど運動部の花形選手だけがチヤホヤされている、他の生徒から冷たくあしらわれ仲間はずれにされた、放火・破壊などを起こすと世間が騒ぐので興奮と快感を覚える」などと言っているのです。なかには家主が自分の母親にきつくあたったので頭に来て仕返しをとおもい、つい殺してしまったというのもあります。このように見てくると私たちの小さい頃も、これに似た不満や破壊への衝動を大なり小なり感じたことはありますよね。違うのは多分、親や先生がまだまだ恐い存在だったこと、いくら反発を感じても人を殺すようなことまではさすがしなかったこと、くらいでしょう。いずれにせよ、事件を起こす生徒が悪いのだといって済ましておくことはできないということです。お隣りや我が家でも起こりうる問題になってきているということなのです。
退官した経験豊かな元裁判官のアメリカ人は、シンポジウムでこんな発言をしていました。「自分の子供たちが学校や先生から受けた扱いを不当だとして、問題を裁判所に持ち込むことが米国では流行ったが、長い裁判官生活の経験から言って、こんなやりかたでは問題は解決しない」と。米国は訴訟社会ですからなんでも安易に裁判所に持ち込む傾向があるのですが、このように父兄にいとも簡単に訴えられるようでは学校も先生も、生徒に対し規律を教え込み、守らない生徒には制裁するということがオチオチできなくなってしまったのです。日本では法廷に持ち込むというようなことは余り無いにしても、先生が校内の規律を守るため生徒に体罰を加えたりして世間の知るところになると、世間はこれを冷ややかに眺めるのみで、先生の側に立って支えるということが期待できなくなってしまったのではないでしょうか。その意味では日本でも先生も人の子ですから、なるべく波風を立てず、生徒のなすがママに放任してしまっているのではないでしょうか。
ケンケンガクガクの議論の中から、米国ではふたつの大きな流れが出てきているように見えます。ひとつは、消極的に身を守るという自衛手段の強化です。先生に銃を持たせろといった議論はさすがに立ち消えになりましたが、コロンバイン高校などでは生徒の凶器所持の有無を検査する機械を導入したりしています。テキサス州のヒューストンでは、生徒20人の登下校のスクールバスに父兄2人と警官が付き添うことになりました。費用は民間からの醵金です。しかしこのようなやり方だけでは問題は解決しないことは明らかです。
そこでもう一つの考え方が世間の支持を集めはじめています。教育のやり方を積極的に自分たちの問題としてとらえ、コミュニティベースで関係者みんなで集まって議論し、改善案が生まれてくればそれをみんなで擁護し、支援していこうというアプローチです。父兄、生徒、先生、学校当局、コミュニティの有力者などが一緒になって主体的に考えようとのやり方です。これまでは「関係者の対決型」であったものを「参加型」へ転換させようということです。このような議論の中から、いくつかの成功例も生まれてきています。父兄が週にいちどは学校の授業や放課後の活動に生徒とともに参加するといったやり方などです(このあたりの具体的動きはまた別のメモにしてくわしくご報告するつもりです)。
言論・表現の自由の尊重ということが行きすぎて、生徒をあまりにも自由放任してしまい、校内の規律が乱れてしまったことへの反省も出てきています。校内の規律を回復し、これを乱す生徒は退学・放校も含めきびしく制裁するということも導入されはじめています。生徒を放校すれば学校は連邦政府からの生徒一人当たりの補助金収入が減ってしまいます。カリフォルニア州ではこれを州財政で補填することを決めました。学校によっては、戦前まではあった制服を再導入しました。
このようにして米国では、教育再建への道の模索が社会全体の課題として真剣に始まっています。最近の教育問題は、かってのように貧困や人種問題の故に出てきている問題ではないこと、豊かではあるが自由勝手主義が行きすぎて、規律を乱す者の勝手が横行しだれもがそれを制止しようとしないという、きわめて今日的な問題だと認識されはじめたのです。失われた社会やコミュニティの紐帯を再構築し、これをバネとしてに対応するほかないという流れになってきているようにおもえます。
このような米国社会の動きは、われわれ日本の社会にとっても参考になる点が多いように思われます。皆さんのコミュニティではどのような問題を抱えておられますか。私の町ではこういったやり方を始めたというようなことがあれば、他の地方のかたの参考までにinfo@civex.orgまでご連絡下さい。