2005年6月 小椋由紀子(滋賀県在住)
今年は戦後60年の節目の年です。
戦後まもなくの昭和20年代に子ども時代を過ごした私は、食べ物を粗末にすることをとても厳しく叱られました。特にご飯を一粒でも茶わんに付けたままであったり、下にこぼしてそのままにしておいたりしたら、きちんと食べてしまうまでとことん叱られ続けました。その時はお米一粒くらいとか、下にこぼれたのなんか汚いのに、とか反発したものです。「お米を粗末にしてはもったいない。一粒でも1年かからなければできないのだ。その一粒を作るためにお百姓さんは大変な苦労をされているので、無駄にせずしっかりよばれなあかん」と、一度言ったからといって聞くような子でなかった私に何度も何度も言って聞かせ、親も釜にこびりついた残りご飯をこそげ取り、別に洗って食べ、実践して見せてくれました。食料が豊富にある時代でなかったので、食べられるものは無駄にせず全部食べなければいけないのだと、「もったいない」という言葉を理解していました。
生活用品も当然十分でなかったので、転んで破れた服はつぎはぎをして着せられました。でもそれを恥ずかしいと思ったことはありませんでした。みんながそうだったからです。鍋や釜も穴があくまで使い、さらに定期的に回ってくる「鋳掛け屋」さんとよばれる直し屋さんになおしてもらい、また長い間使っていました。新聞は読んでしまえばトイレットペーパーに様変わりです。使い良い大きさに小刀を使って切るのが、子どもである私の仕事でした。しっかりと揉みほぐして使わないとお尻が痛かったのを思い出します。そのような状態でしたから、「もったいない」の言葉は日常茶飯事のように使われておりました。
朝鮮戦争による軍需景気で経済状態が良くなり、生活も豊かになると共に、「もったいない」の言葉を使うことが少なくなってきたようです。さらに時が進み、日本全体が中流意識を云々するようになると、この言葉がほとんど聞かれなくなってしまいました。それと共に増えたのがゴミの量です。昔は各家庭で燃えるものは風呂炊きに使い、生ゴミは田畑で土に返してリサイクルしていたのですが、自治体が一括して収集するようになり、処理が楽になりました。それでも収集日が少ないなんて不満が出る始末です。まさに「もったいない」の言葉は死語になってしまったという気がします。
ところがここしばらくの間に、この「もったいない」の言葉がクローズアップされる出来事が二つありました。1つは、2002年度にノーベル化学賞を受賞された田中耕一さんが受賞後感想を述べられている中の言葉です。「自分の歩んだ研究の足跡は少し遠回りをしたものでした。他人は四十代でノーベル賞までもらって何が遠回りなのか、と言われるかもしれないが、自分は1つ1つの薬の特性を確かめなければ、次の薬の特性には進まずに、1つ1つの薬について見定めたかった。そうしないと1つ1つの薬がもったいないから遠回りをしたのです。」と言っておられます。
受賞のスピーチの原稿を英語で書かれたときに「もったいない」のことばが英語の単語になかったというのです。自分の思いを英語で表現するのにご苦労なさったことでしょう。そして日本に戻り、出身地富山での挨拶です。「思えば世界に通じる英語にさえない「もったいない」の心を教えてくれた家族や徳風幼稚園、そしてふるさと富山の大自然に対して心から感謝したい」と。この発言から、人として生きていく上での姿勢の大切さを教えられる思いです。
もう一つは、アフリカ・ケニアの環境・天然資源省副大臣のワンガリ・マータイさんが「もったいない」の言葉を世界共通語にしたいといわれていることです。マータイさんは森の少ないケニアで30年近くにわたり草の根の植林活動を続け、その功績が認められて昨年ノーベル平和賞を受賞されました。今年3月に環境問題の会議のために来日された折、日本には「もったいない」の表現があることに感銘を受けられ、この言葉を自分の母国や外国に持って行って世界に普及させたいと言われていたようです。
この二つのことにより、「もったいない」の言葉が既に国際語になっている「津波」のように世界的に知られるようになったことはとても嬉しいことです。この言葉には日本の心が凝縮されているような気さえするからです。
私は、最近この言葉に今まで使っていた意味よりももっと深い意味があることを知りました。恐れ多いとか、褒められたときに謙遜して感謝の気持ちを表すときにも使われるようです。自分が分以上に褒められたときに「もったいないことでございます」などという使い方でしょう。時代劇によく用いられていますね。また、その人、その物の命を本当に生かし切っているのか、生かし切れていなかったらそのことを惜しむ気持ちを表すときにも使われるようです。そこには本当に意味での恥じらいがあるというのです。
一粒の米、一匹の魚、一本の大根など、多くの命が私の命を支えるためにそれらの命を提供してくれているのです。この私はそれらの命によって生かされていることを喜び、今を精一杯生きているかというと、誠にお恥ずかしい限りです。
仏教思想に裏づけられた奥深く、素晴らしい意味を持つ「もったいない」の言葉が国際語として世界に発信されようとしている今、日本ではまさに風前のともし火になりかけているのです。これほど恥ずかしく、情けないことはありません。この言葉を使いこなすことができるシルバー世代が、もう一度家庭に、地域に、「もったいない」を復活させなければと思います。生かされて生きる喜びを味わいながら次の世代にこの言葉を伝える努力をしていきたいものです。そして、「もったいない」の言葉が国際語となって世界に普及し、日本の素晴らしさを多くの人たちに理解してもらえるよう念じたいです。
(おわり)