東京の60年(その5)

八幡武史(東京在住)

恥ずかしい言葉

いささか品のない話が続くが、ご容赦願いたい。嵌る(はまる)という言葉がきらいだ。あれは昭和の終わりごろ、1980年代末だったか、わが家に来る娘の先輩のお嬢さんが「私、ファミコンに嵌っているの」というのだ。えっ、と思わず聞き返した。今では若い人たちが『熱中する』といった意味でよく使う言葉だが、当時としては新語というか、新しい使い方だった。私にはかなりショックだったのだろう。この言葉の出現(再出)はよく覚えている。終戦直後の昭和二十年代初め、私が五、六歳ごろ、近所のガキ大将の田中のショウちゃん(仮名)がニヤニヤしながら、声を潜め「焼け跡の暗闇で男と女がハマッテイタ」といって、左手の親指と人差し指で丸をつくり、右手の人差し指をその丸に突っ込むのだ。ショウちゃんはちょっとませていた。私にしても、幼心になんとなく意味が分かった。そして恥ずかしかった。東京の下町育ちのビートたけしさんあたりは年代からいって、知っていると思う。テレビも携帯電話もなかったが、そういう言葉はあっという間に、東京中どこからか伝わってくる。ショウちゃんは童謡の『ドングリコロコロ、ドングリコ』と歌って、にやりとしながら『お池にハマッテさあたいへん』とことさら『ハマッテ』を強調するのだ。私には「嵌る」という言葉は恥ずかしく、戦後ずっと心に秘めていた。それが昭和の終わりになって突然、流行語になって生き返ったのだ。

パンパンという言葉も恥ずかしかった。今では完全に死語となっているが、終戦直後は子供が口にしてはいけない言葉だった。戦後、国連軍の進駐軍が、いつの間にか駐留軍、駐屯軍と名を変えても、街に彼らGIの腕にぶら下がる日本人女性がいた。敗戦となると悲しいかな、戦勝国の男性に春を売る特殊女性が出てくるのは、致し方ないことだった。語源は分からないが、そういう女性をパンパンガールとかパンパンといった。街中では派手な服装、どぎつい化粧ですぐに分かった。決められた男性一人だけの専属になると『オンリーさん』となるのだ。オンリーさんだけでなく、多くの日本女性が『戦争花嫁』となって海を渡った。昭和二十年代から三十年代になると民間放送が開局し、これまでNHKだけだったラジオ放送も賑やかになった。それまではNHKのラジオ歌謡番組で健全な歌が繰り返し流れていたのが、民放のおかげで巷に流れる歌も増えた。『銀座カンカン娘』という曲が繰り返し電波に乗り、たちどころにみんなの口にするところとなった。「あの子可愛いやカンカン娘」(歌うは高峰秀子)という出だしで、いまだに懐メロとして聞かれる。

ところがわが家のラジオときたら真空管(4球)方式の旧型で、聴こえてくるのはカンカン娘ではなく『パンパンムスメ』だ。四歳上の兄は最初聞いた時、「おい、すげえ歌をやってる」と飛び上がった。なにしろ民放の広告放送で金亀石鹸だか金釜石鹸が『キンタマセッケン』に聴こえたのだから。因みにこの兄はこの件がきっかけになったかどうか分からないが一念発起、ラジオ技術者の道を歩むことになった。さらに後年、昭和四十年代終わりころ、私は『銀座カンカン娘』の作曲者、服部良一氏に会う機会があった。今もあるが東京の有楽町のガード下の飲み屋で、たまたま隣りに座った名作曲家はとても気さくな方だった。「ちょいとお聞きしたいのですが、あのカンカン娘のカンカンってどういう意味があるのですか」と私。服部さんは鷹揚に、「うん、あれねえ。佐伯(孝夫)君が書いたの。でもあまり意味がないのでは」と、笑いながら答えてくれた。今、この曲の歌詞を読んでも、カンカン娘の意味がよく分からない。当時の親父さんたちは夏になるとカンカン帽子を被った。麦わら帽で、デキシーランドジャズの奏者が頭に載せている。街中でカンカン帽を見なくなって久しい。(了)


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