東京の60年(その6)

八幡武史(東京在住)

東京人の系譜

東京都(市)の人口は昭和19年には727万人だったが、20年11月には348万人と半減(東京都の歴史、山川出版社)。戦後、東京の人口は昭和22年(1947)ごろが最低で500万人ほど、それが昭和35年には戦前の最大だった860万人を超して、968万人となり、さらに昭和44年には1000万人を突破。日本の総人口の約一割が東京に集中、増え続けるというパターンとなっている。昭和20年の終戦とともに、中国大陸や東南アジア、南方(南太平洋)にいた、300万人以上の日本人が次々に帰還してきた。彼らは派遣されていた兵隊、軍属だけでなく民間人も多数含まれていた。なにしろ満州(中国東北部)には王道楽土の広い新天地があるというので日本から多くの人が植民していった。現在でも65歳以上の人たちには親に連れられ、帰還した引き揚げ者が多い。「親父が満鉄で、大連からの引き揚げだった。危うく残留孤児さ」「ぼくは朝鮮から、仙崎(山口県)に上陸したとたん、頭からDDTをかけられ、真っ白になった」など。終戦直後には急激に人口が増えると、食糧をはじめとする受け入れ体制ができていなかったので、東京への帰還、流入が制限されていたという。それでも徐々に人が増え始め、その人たちが今日の日本の基礎を固めていった。

戦争の影

政府、官僚の中枢にいた人たちは、当然のことながら戦前の教育を受けた人たちだった。惜しむらくは優秀な人の多くは戦争の犠牲者だった。私が就職して初めて接した上司の人たちは、太平洋戦争の真っ只中で育ったので、多かれ少なかれ、戦争の影を引きずっていた。ジャーナリストとして初めての取材対象となった人たちもしかり、『戦争の生き残り』と自認する向きがあった。街中でもタクシーに乗ると陸海軍の戦闘帽を被っている運転手がいた。彼らは客に戦争世代がいると、お互いに話が弾んだ。新橋、新宿あたりにも軍隊キャバレーがあって、入り口でラッパの送迎を受けた。いつの間にかこうした風俗も、献金箱を持った傷痍軍人姿の人たちも消えた。昭和30−40年代の新宿駅の東西をつなぐ地下道で傷痍軍人がアコーデオンで奏でる切なく、もの悲しい戦時歌謡を聞いた人もあるだろう。

意外な結びつき

官僚、民間のトップの人たちは(帝国)大学ではなく、旧制高校で結ばれていた。それも今でいう『部活』同士の結束は固かった。「あいつは同じ寮で、ボート部で一緒」「あいつとは高校(旧制)の柔道大会で張り合ったものだ」とか。そして学業なかばで戦場に散った学友の話でしんみりとなる。もちろん戦友となると、さらに結束がつよくなる。学閥といえば、中国上海にあった東亜同文書院の存在も大きかった。最近のベストセラー、佐野真一氏の「阿片王」に詳しいが、明治時代に日本は中国大陸への足がかりとして、中国語から始めようと、教育の場をつくった。昭和40年代の会社四季報などを見ると、役員の学歴も掲載され、「東亜同文書院卒」という記載があった。おそらく中国大陸への雄飛を夢見てそこで学んだのだろう。彼ら卒業生の人脈は長い日中間の断絶の時代にも、なんらかの形で中国大陸への繋がりを維持してきた。同じような構想でロシア語学習のため、ハルビンにも学校があったらしい。

戦後日本を担ってきた連中の変わった結びつきといえば。「おたくの○○さん、どうしてる」と突然、思わぬ人(取材対象者)から、意外な人(自分の会社の)について聞かれることがあった。同県人でも、同じ高校でもない。よく聞くと『結核同級生』だ。同じ療養所仲間で、時間だけは十分にあったので、俳句や小説の同人誌をつくったりしたといい、とても懐かしそうに話す。生き延びた彼らは抵抗力を身につけたのか、意外に長生きが多い。親類縁者で必ず一人、二人結核に病んで、片肺がないとか、肋骨を何本か切除して、体を斜めにして歩いていた人たちがいた。サナトリウムとか肺病病み(年頃の女性の場合、妙にロマンチック)といった言葉は聞かれなくなった。

蛇足だが彼ら(私からみて先輩)の風俗に際立った特徴があった。ゴルフ場で腰に手ぬぐい、タオルを下げるのだ。おそらく当時の学生、軍隊教育の名残か。律儀な先輩は長四角に畳んだ手ぬぐいをベルトに挟んでプレイをした。いつしか名門ゴルフ場ではマナー委員から「腰に手ぬぐい、タオルを下げるのはやめましょう」と、達しが出るようになった。とうの昔の話である。(了)


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