東京の60年(その7)

八幡武史(東京在住)

食の話

終戦直後の日本について、「あのころは皆、貧しかった」という。しかし、どうもこの言葉が気になる。本当に貧しかったのか。ものがないといえば、当たり前の話である。そのころ比較的お金持ちだった闇(ヤミ)成金だって、悪徳政治家だってテレビもなければ、マンション生活もなかった。比較の問題で、皆が貧しかったというなら、飛びぬけて大金持ちもいないのだから、別に問題ではないだろう。お金があっても、ものがないのだから。食糧難で餓死者がといっても、農村に行けば、結構物資はあった。海外からの帰国者の急増、戦争によってずたずたにされた交通機関では流通はままならない。朝鮮半島や中国大陸に頼っていた食糧もなくなった。郊外の農家に行けば、食料・物資はあり、皆が買出しに出かけた。お金の価値がなくなり、家長、主婦は箪笥から衣料、貴金属などを持ち出し、米、野菜と交換。しかし持って帰るまでがまた、一苦労。食料統制のため各駅には取り締まりの警官がいて、闇物資として摘発するのだ。ぼくはいまだに分からない。闇といっても、盗んだわけでもないし、家族のために必死で食料を確保しようというのに。それに摘発、押収した食料はどうなったのか。「皆、貧しかった」というが、結構、裕福な層がいたのではないだろうか。いつでも、どこでもそうだが、戦争の犠牲になるのは、自分で食料を調達できない婦女子、幼い子供たちだ。NHKの回顧番組では太平洋戦争が終わり、「あのころ日本はかってない経験をした」といっていた。この言い方が正しいと思う。

集団疎開で戦火の届かない地方に送られた学童、子供はひどい目に合った。疎開という言葉すら知らない現代の子供たちには到底理解できないだろう。

確かにあのころの写真を見ると、子供たちの服装は今の子供たちのそれと比べると貧素だ。だけど昔の子供たちの中には、ずば抜けてリッチな服装の子もいない。ただ一様に、明るい。だいたい現代では、三角ベースや石蹴りなどで、外で集団で遊ぶ子供たちを見ない。

あのころ、といっても昭和30年代ごろだったと思う。食卓もどうやら品数が増え始めた。たまにすき焼きとなると、必ず松茸が入っていた。松茸はそれほど高いものでも、今日のように貴重品扱いされるものでもなく、ごく当たり前の野菜のひとつだった。理科の実験だったか、家から松茸を持ってくるように、いわれた。傘の開いた松茸を黒い布に一晩置いておくと、胞子が傘状に白くなっているのだ。実験に使った松茸を持ち帰ったかは記憶に定かでない。筍も関西の知り合いから季節ごとに送られてきたが、新聞紙に包まれた黒土のついたものだった。食べ物についてさらにいうと、学校給食によく鯨のステーキのようなものがでた。臭みがあるので、みんな顔をしかめて食べた。鯨のベーコンなどは格安で、惣菜店の片隅になぜか汚らしく置かれていた。いずれも最近では貴重品扱いの食べ物、珍味だ。近郊からくる野菜は新鮮で豊富だったが、肥料のせいか、子供は回虫に悩まされ、『サントニン』という薬を呑まされた。家に置かれていた味噌,醤油は、しばらくするとカビで真っ白になり、そのカビをとりながら使った。ことさら「防腐剤、添加物は使っていません」なんていわなかった。極端にものがなかった時代に比べれば、あの頃の方が豊かだったのではなかろうか。マグロはマグロの、イカはイカの味がした。来客があって寿司をとったりすると、並でも赤身のマグロは分厚く、玉子焼きは薄くビロードのように滑らかで上品だった。寿司といってもトロ、イクラ、ネギトロなんてなく、軍艦巻き(すしめしを海苔で巻いてイクラなどをのせる)もなかった。今、一流の寿司屋に行けば、昔はごく普通だった握りずしはとても高い。「なにしろ本物の近海ものが手にはいらないもので」と寿司屋の主はいう。昔は江戸前というか、近海ものしかなかった。関東と関西とでは食べ物の嗜好が違うが、昔の味と比べると、いかがなものだろうか。


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