東京の60年(その8)

八幡武史(東京在住)

食の話(続き)

昨今、大都市のデパートの食品売り場に行くと、あまりの豊富さに圧倒され気分が悪くなるほどだ。前回で食べ物について触れたが、戦後60年の食についてさらに触れてみよう。食生活が現在のように豊かさを感じ始めたのは、昭和30−40年ごろからではないだろうか。最近でこそ食の評論家が、フレンチ・和食・中華などをネタに極彩色のグラビアで語る。確かにうまそうだ。だが、なんとなく釈然としない。例えば週刊誌のカラーページに美女のヌードがあって、その後にいきなりこってりした料理のページがあっても余り食欲が湧かない。

この60年のわが舌の記憶をたどってみよう。ひもじさからどうやら抜け出たのは昭和30年代からではなかろうか。当時でも米穀手帳というものがあって、家族の名前が記載され、米屋ではその分しか売ってくれないのだ。ちょっとした旅行にも米持参。飯屋では食料切符なるものがあって、それを持っていないと食事にありつけない。不思議なのは当時いったい何を食べていたのか、はっきり思いだせないことだ。学校から帰ってくると、まず「腹がすいた、なにかない?」というのが子供たちの口癖だった。だけど一体、何をおやつにたべていたか、はっきり思い出せない。ある子は十円玉を握りしめ駄菓子屋に駆け込んだり、ある子はころあいを見計らってやってくる紙芝居屋の水飴なんかを、時間をかけて味わっただろう。しかし、そんなもので腹はふくれたのか、そのへんがはっきりしないのだ。

わたしの母は大正の初め、東京の下町、京橋の生まれで、祖父つまり母の親父の家作には、かの北大路魯山人がいたそうだ。ある日、魯山人の料理についてのテレビ番組を見ながら「あたしゃ、この人に三度の食事をつくってもらっていたんだ」という。後に魯山人の年譜を見ると、確かに母のいうことと合致する。「ほう、それはごたいそうなことで、ところでどんなものを食べていたの。ぼくらの食事にあまり反映されていないな」と私。母はぐっと言葉につまって、「そういえば、なにを食べていたか、思い出せないわ」。東京の商家では大勢の使用人が家族と一緒に食べていたのだろう。関西の商家でも、似たり寄ったり、だったのではないかと思う。とにかく、美味とは関係なく、なにか口に入れていたのだろう。かくいう私もそんなものだ 。

では本当に美味しいと思った食べ物はとなると、結構思い出す。母に、その魯山人につくって貰って一番美味しいと思ったものは、と聞いたら、「そうね、関東大震災で皇居前に逃げた時、彼が七輪、昔のだから四角いのよ。それを持って駆けつけてくれたの。そして、手際よく茄子を焼いてくれて、持ってきた醤油をつけて食べたの、それが一番」だったそうだ。因みに母は北大路を、北叔父、つまりアンクル北と思い、「北オジサン」と呼んでいた。(この項続く)


目次