私(七尾)は、サンフランシスコの日本総領事として勤務した1990年代後半、英国婦人と結婚されて同地でお住まいであった木村耕蔵さんとの知遇をえました。奥様はキャスリーンさんといわれジャパンソサエティの会長もしておられた関係で御夫妻との交友が深まりました。
耕蔵さんと私とは、戦後日本の大変化の時代をそれぞれのルートで駆け抜けてきたわけですが、同世代ということで、日本の将来への熱い思いをともにする部分も多い次第です。
以下は二人の最近のやり取りの一端です。
昨日はスカイプのお陰で楽しい体験ができました。外務省の駆け出しで英国研修に行った1966年当時は、三分三千円の国際電話、分秒に追われての日本との通話でしたから、信じられないほどのIP時代に入ったのだなということを改めて実感しました。
ところでNHKのヒストリアという番組を最近見ました。敗戦時、奄美が北緯30度で本土と分離され戦後新教育の情報から隔離されたことから、二人の教師が神戸へ密航、新教育の最新情報を手に入れるため東京の文部省を目指すのですが、住民から旅費用として託された黒糖や大島つむぎを神戸の悪いブローカーに横取りされたり、神戸在住の奄美出身者からはあたたかい支援の拠金をうけたりで、波乱万丈の東京への旅を続ける話が紹介されていました。琉球と薩摩にはさまれて苦難の歴史を経てきた奄美が、敗戦時もまた苦汁をなめさせられたことの紹介でした。
こんなことから、耕蔵さんもいろいろな経緯があって現在のSFでの御生活に至っておられるのだろうなと思った次第です。実際、体験していない者には簡単には窺い知れない人生の軌跡でしょうね。奄美では戦後、米軍の占領下、うまい米国産の赤身肉をこっそり食べたものだとのお話がありましたが、多分それは歓喜の一瞬であって、その裏には言葉では尽くせないほどの難渋の連続がお有りになったのではないか、と想像した次第です。不撓不屈の前半人生の軌跡の一端なりともメモにしていただき、今のとかく方向感覚を失って漂流しがちの日本に対しての苦言や助言を示していただければ、小生の友人ネットワークに知らせ、小生のHPに載せることができるのだが、と勝手に思った次第です。
NHKのヒストリアという番組をご覧になって、私の事を思い出していただき有難うございます。
清彦さんがご指摘の通り私は奄美大島に育ったので、あの時代の出来事が今では懐かしく、語れば涙がでるほどです。終戦後8年間、奄美本島はアメリカの信託統治下に置かれ貨幣も軍票のB円でした。ドルと同じ価値で過ごしたことを覚えております。
この頃の奄美の英雄は朝潮太郎でした。小学生の頃、よく「本土へ密航」という言葉を耳にした覚えも残っています。そのような環境での日本教育が、私の人生を育ててくれたのでしょうね。
確かにもっと環境がよかったらと、負け惜しみ心も残っていますが、、、、。
以下は私が今、思うことの一端を記したものです。
サンフランシスコで想うこと、それは遠く離れた母国の事です。
良きにつけ悪しきつけ日本人なら誰でも自然に想う事であり、自分の体内に生み備わって表現出来る唯一のアイデンティティでしょうか。 私のように40年余サンフランシスコの地に定住し、米国市民権を持って地域の方達にお世話になって生かさせてもらっている身ですが、しかし肌の色が変らないように心が変るはずがありません。
私の生まれ故郷は奄美大島です。奄美で僻地教育を受けたあと高校生時代に上京、大学卒業まで東京生活、大学では教員免許を取得しました。卒業後は奄美へ帰り、故郷で教員になるつもりでしたが急に自分の志望を覆し、兄弟知人の反対を押し切って当時渡航困難な沖縄へ渡り、兄の経営する電気工事会社へ入社しました。沖縄は当時米国の信託統治下で日本人の永住は、滞在VISAがない限り認められておりませんでした。私は、親戚のコネクションを利用させてもらい2年間滞在しました。沖縄での青春時代を過ごした後、1968年7月、ロバート・ケネディが暗殺された年に渡米しました。
渡米は実現したものの、言葉の不自由で身動きもできない程苦境に立たされましたが、両親から受けた愛情と故郷で鍛えた精神が常に私の支えとなって生かされ、それ以来今日までサンフランシスコでの生活が出来るようになりました。
私が何故故郷で教員を選択しなかったかというと、あの時私には理由があったのです。
その理由とは、日本の戦後教育が文部省の教育指導要綱に基いた教育で、生徒への指導方法も決められており、教育の現場には「教える立場からの自由」がなかったからです。
僻地教育を受けた私は、上京して初めて都会と田舎の教育を比較する事が出来ました。先生は3日したら辞められないと云われるほど生徒への愛着心が増します。しかし「先生と呼ばれて人生未熟な私が、純粋な子供たちにこの指導要綱に沿って偉そうに教える?」ことには違和感がありました。
私はその時こう思っていました。人生にはいろいろの生き方がある。自分で体験し他人の体験も学び、あらゆる方面から習得した自分の考えを子供たちには親身に伝え、そして子供達一人一人が自分に合った道を選択して歩めるような学習をさせたい。このような教育を施すには、まずは自分の人生修行後でも遅くないと考えたのです。この考えは今でも変っておりませんし、当時よく気がついたものだなと苦笑しております。勿論教員職種にもよりますが。
しかし一方では、人生の大半を他国で体験し、今更、ノコノコと母国へ帰り、自分の思うような社会が待っているだろうかと考えた時、躊躇せざるをえません。ましてや疎開地化された自分の生まれ故郷を、脱出する事無く大切に守ってくださっている島の人達から見れば、人生体験も終わりかけたので帰国した、などと言えば私はあざ笑いされる身になるでしょう。
もう一つ欲を申せば、近い将来日本も大変革して、私が生まれ育った奄美大島にも例えば米国並みの生活環境が整備され、老若問わず平等に住めるような環境が整えば、その時、私の島国根性も忘れられ、老後を安心して過ごすことができる時代が訪れるでしょう。
故郷は遠きにありて想うもの、ですかね。 [了]