七尾清彦
(都内のある教育機関で去る1999年7月8日行った講演の記録)
32年間の外交官生活を通じ欧州、アジア、米国など多くの国に勤務し、色々な社会をみてきました。最後の勤務地は米国のサンフランシスコでした。2年ぐらい前からのことですが、外国人が日本を冷ややかな眼で観ている、あるいは、はっきり申して侮蔑的な目で日本人を見はじめたことに私はこれはかなり危機的だと感じたのです。
経済大国で諸外国への経済的影響力が大きいにも拘わらず、日本人はその自覚なり、自ら改革を進める能力が欠けているのではないかといった侮蔑的な見方がますます露(あらわ)になってきておりました。また冷戦の終焉により民族紛争が噴出し、経済・金融・政治・安全保障などが国際化と相互依存を深めるなど、国際環境が急速に変化しつつあるにもかかわらず、海外を見つめる目は相変わらず旧態依然のままであり、改革に向けて動こうともしない日本の現状について私は危機感を抱いたのです。
日本は今、トータルな意味での改革の喘ぎの最中にあります。これについては、「ひとりひとりのルネッサンス」(毎日新聞社刊)という拙著で叙述しました。大事なのは改革への具体的方法論です。そこで私は1年ほどの予定で、縁あって米国コロラドスプリングスの社会に飛び込み、肩書きもない一私人として、ベンチャー・ビジネスマン、地方の政治家、実業家、軍人、ボランティアの人々など様々な人に会い、米国社会についてじっくりと学ぶことにしました。本稿では、同族社会である日本を念頭において社会の多様化ということを軸に、日本の改革・再生の処方などについて提案しようと思います。
多様化とは、社会の中で各層、各部署、各組織、民族・人種が相互に刺激し合いながらアイディアを出し、新たなもの、創造的・独創的なものが醸成できる雰囲気、活力を産み出すことであります。卑属な言い方をすれば、ワイワイガヤガヤというところでありましょう。
1970年代以降、洋の東西を問わず先進諸国は、1920年代から始まったと言われる電気革命のもとで石炭・石油・原子力をとわず、電力をエネルギー源として量的な拡大を指向する文明様式に行きづまり始めました。環境問題も出てきて二酸化炭素排出抑制などにも取り組む必要があります。経済成長も鈍化してまいりました。冷戦も終結し、東西の厳しい軍事的・イデオロギー的な対立も過去のものとなり、社会をある程度、緩める余裕も生まれてまいりました。そのような状況下で先進各国は、より創造的・独創的なものを求めそれぞれの社会の改革に取り組みつつあります。国ごとに違いはありますが、どうやら共通しているのは社会の多様化ということであり、世界史的な局面に差し掛かりつつあるのではないかと考えます。以下では、日本の改革・再生への基本的手法としての多様化について述べてみたいと思います。すなわち多様化と民族国家との関係、多様化のもつ歴史的な意味、そして日本社会での多様化への条件を考えてみましょう。
最初に強調すべきは、同族社会であれ多民族社会であれ、多様化の営み・試みがダイナミックに進行している必要があるということです。多様化社会とは、異なった考えや能力の人々が混ざり合い、相互に刺激しあってよりよいアイディアを出し独創的なものをつくり出すことのできる活力ある社会だからです。
スイスのような社会は、先住のロマンシュ族、そしてドイツ系、フランス系、イタリア系と大ざっぱに言えば4つの民族の集合国家であります。極端に申せば、各州・各村の独自性を維持しながら他と混ざりあうことをかたくなに拒みあう社会です。多様性はありますがタコ壷的であり、多様化の動きがありません。大学を出て弁護士の資格があっても、各々の自治体ではギルドががっちりできていて人数の制限があり、何年も待たないと弁護士になれないのです。
一方、米国は、新しく人為的につくり出された国家であり多様化への動きがもともと社会にビルトインされております。スタインベックの代表作である「怒りの葡萄」(1940年映画化)では、遅れて米国にやってきた農民達の死ぬか生きるかの闘いが描かれてております。平等・自由・機会均等を求め、"We are the people."と権利を主張して、争い論争し裁判をしてひたすら前進し続けないと生き残れない社会であり、構造的に闘わざるを得ない社会であると思います。
欧州諸国や日本は歴史と伝統に根ざした民族国家であります。多様性がビルトインされておりません。しかしドイツ、フランス、英国などの欧州各国は、EU統合にみられますように、多様化を求めて国境を取り払い、経済・政治・安全保障などのいろいろな点で「面的」な拡大の実験をしております。日本は欧米とは所与の条件が異なりますので、日本人自身みずからが多様化する方法を独自に模索し実現していかねばなりません。すなわち日本は他に例のないケースであり、独特の多様化の実験になると思います。
多様化の背景を考えてみましょう。大きな歴史のうねりの中で今の局面というのは、多様性というものを大いに刺激して、その中で多少の混乱と無秩序が出てくるかも知れませんが、花開くものが百にひとつ、千に幾つか出てきます。アイディアなり独創ともいってもよいでしょう。脱工業化の先進諸国では、自動車の製造、何百万台とか、鉄の生産何億トンというような量的な拡大の時代ではなくなっています。経済の低成長率も常態となりました。現状を打破するためには、いろいろなことについて改革・革新が必要であります。効率や質の追求とともに、創造を目指して多様化をはかる必要にせまられているのです。
効率・質の追求と多様化の実現は改革の両輪であります。1920年代に始まった電気革命に比肩しうるほどの深みと奥行きを持った新たな技術大革命の萌芽期に、われわれは今、入っているのではないでしょうか。このような歴史的なうねりのなかで、多様化を求めてそれぞれが刺激しあいながら、試行錯誤を重ね、独自のものを生み出そうとする動きが先進各国に共通して出てきました。もとより多様化の追求には、一定の混乱・無秩序と不安定化といったものが避けられません。予め、そのようなリスクも含まれている事を甘受せねばなりません。
私が現在滞在しているコロラドスプリングスでは、米国の空軍士官学校(Air Force Academy)や基地があり、軍事技術の民生化もあって自由闊達で研究的な雰囲気がみなぎっております。ハイテク関係者のセミナーやパーティも多く、素人の私には驚くような話を耳にします。例えば、今後20〜30年以内に人工皮膚が開発され、この皮膚でつくられた潜水服を着用すれば水中の酸素を取り込み何時間も水の中で呼吸が可能となる技術が実現されるるとか、人工臓器が開発され、人は機能しなくなった臓器を人工臓器に交換して延命できるようになるとか、ロッキードマーチン社の人が言うには、スペースシャトルの民生転用によりロサンジェルスからラスベガスまで10分で移動が可能になるとか(このための実験を来年することになっている)が話されています。インターネットなどはこのような大きな変革のほんの一部でしかないようです。構造的に根の深い、幅の広い技術革新のうねりが始まったようです。 一方で、量的な成長の限界に直面しいろいろな見直しも進行しております。デンバー近郊の比較的裕福な町にあるコロンバインという高校で今年の4月に発生した銃の乱射事件、これは米国社会に大変大きなインパクトを与えています。一人勝ちの米国経済がもたらす物質的な豊かさだけでは、個人の幸福なり家庭や社会の安定が得られないことへの反省が始まっています。2000年の大統領選挙に向けて、候補者たちは心に問題を強調しはじめています。
ところで米国での改革の動きは四半世紀前に遡ります。1976年にカーター政権が誕生し、トラック輸送や民間航空業での規制撤廃、競争促進などが始まりました。当時の経済停滞のもと、民主党得意の社会工学的手法は一歩後退したのです。その後、レーガン大統領がカリファルニアでの体験をもとに規制撤廃、減税、小さな政府の政策を強力に進めました。レーガンは大統領になる前はカリフォルニア州知事(1966年から2期8年)をしておりました。同州では1978年に納税拒否運動の「住民提案第13号」が住民の直接投票により可決されました。固定資産税について州議会よりも住民の意志が優先したのです。税の問題を中心に住民が直接投票により決めていくとの新しい政治の流れを不可避と見たレーガン大統領は、このカリフォルニア方式を全米に広めたのです。このような改革の成果として、米国はここに至って世界でひとり勝ちの状況を呈しておりますが、実は四半世紀の懐妊期間を要したのです。 日本の改革を考える場合も、少なくとも四半世紀くらいの時間的な視野をもち不退転の決意で一歩一歩に進む必要があります。この場合右顧左眄ではなく、今の局面はこう行かねばならないという方向性をひとりひとりが持つ必要があります。同時に、欧米のケースを見ていますと、改革の両輪である効率化の追求と多様化を動かすためには、ある程度の社会の混乱と不安定化は不可避だということがわかります。
多様化にあたっては日本という社会は欧米とは大きく異なっており、欧米の例は参考にすべきですが、やはり日本版の多様化を考えねばなりません。日本の社会は、律令国家、和の社会と言われます。大和の時代から、長いものには巻かれろ、お上が右へ習えといえば、何から何まで皆が一致団結して右に習うので多様化には馴染まない社会と言われます。
しかし、実際にそうでしょうか。例えば、飛鳥天平時代、特に象徴的には聖徳太子の頃には、仏教の伝来に伴い農耕・染色などの高度な技術が導入されました。それとともに、物部氏とか何々氏というような部族に分かれていた国が統一され、農民も部族の所有物ではなく臣民として、全国一律の考えが適用されるような社会に変革されました。堺屋太一氏も述べているように、安土桃山時代や明治維新もかたちは異なっても大変革であります。戦後の混乱期もそうです。日本は確かに同族社会でありますが、日本の歴史なり文化をよく観れば、多様化を進める能力と体験が備わっていることが分かります。日本人の中に秘められている多様化のDNAを呼び起こすべきだと思います。
私の郷里である滋賀県の長浜の例があります。ここは秀吉が小谷城という山城を攻略した後、初めての平地に平城を造ったところです。業種ごとに町割りを行い朱印を与え、町衆に自治権をあたえ、税を免除して自由闊達な雰囲気のもとに、東北、北海道等との物流と商業の振興の拠点に育て上げたのです。商人の方も時の権力者としたたかに折り合いをつけつつ、当時のベンチャービジネスを手がけていったのです。秀吉の長浜での実験の成功が堺や博多の発展につながっており、朝鮮貿易、シャム貿易へと発展していった訳です。このような町衆による自治と繁栄いうものが過去に実在したという事を、われわれは今、思い起こすべきであります。同族社会のなかでも多様化の花を咲かせることは可能だということです。
単に、規制の緩和・撤廃、地方分権の促進といった掛け声だけでは不十分です。コロラドスプリングスへ行ってわかったことですが、政府が引き下がったところには、かわって個人なり企業が、自発的な参画意志のもとに前面に出なければなりません。このことは後で詳しく申し上げます。
ところで最近、日本の友人と話をしていて感心したことがあります。この人は大手の商社に30何年か勤め最近退職されたのですが、退職の少し前に美容師と老人介護の資格を取りました。退職後、自らささやかではありますが美容室を開いたのです。外に出たがらない老人を営業時間外にたずね、ボランテイアで美容や介護をしてあげ、外に出る気持ちを作ってあげたいというこの人の考えには心から敬服しました。このように社会に貢献してみたいという立派な日本人が次々と出てきています。
多様化社会への処し方で第一に重要なこと、それは税金の問題です。お金の問題でまず動きをつくらなければ、経済・政治・社会は変わりません。経済の成長が鈍れば所得も伸び悩み悪循環におちいります。香港ではせいぜい15%くらいの一律の所得税や法人税です。相続税は殆ど無いという軽税国家を運営しています。こういうことも参考にする必要があります。
税率の問題よりもさらに大切なことがあります。日本の徴税について聞いてみて分かったことですが、税収の9割は本社のある東京、大阪、名古屋の三大都市圏で集められています。企業や個人は日本各地でその地の道路や水道を使い収入を上げているのですから本来、利潤とか所得が発生した場所に直接税金が落ちなければならないのです。地方分権といってもお金の裏付けがなければ、分権や自立も育たないし、地方独特の工夫や多様性も出てこないと思います。中央に陳情し、東京を経由して地方交付金や補助金を貰うという税構造を見直す必要があります。
第二番目は、直接民主主義であります。私たちは学校で間接民主主義がいいと教えられましたが、米国ではますます直接民主主義が重視されてきてています。本来の権源者である国民一人一人に権限を相当戻すべきであります。とりわけ税の問題についてはそうです。ところが日本の地方自治法では、住民投票や住民請求を認めるくだり(代12条)で、税に関することはいっさい除外しているのです。一番大事なお金の問題で地方は発言権を取り上げられているのです。米国ではすでに24州で、住民による直接の提案をおこなうこと(Initiative)、また州議会で決めたことを住民の直接的な審査(Referendam)に付すことが法律化されています。また予算や課税に上限を決めている州も27あります。
第三番目は、自治体の政治・行政への住民の直接参加であります。おらが村・町の政治へのボランテイア参加です。人口37万人のコロラドスプリングスでは市会議員は8人のみで、同じような人口規模の滋賀県大津市では、38人の市会議員がいます。驚くべきことに、コロラドスプリングスの市会議員は他に正業を持ったボランティアであり給料がありません。たった8人の議会で一体どうして運営できるのか調べてみたところ、市民委員会(Citizen's Board)といったものがいくつもあり、予算審議などはボランティア参加の市民によって荒ごなしされるのです。また、予算規模を押さえるために例えば市役所の電話交換手などをはじめとして広範囲なボランティアが行われており、住民・企業の自発的参加・協力により自治体の運営が支えられているのです。如何に日本は代議制への重いコストを支払っているかお分かりいただけると思います。
しかし我が国でも住民による改革の努力が始まっております。5月2日付の日本経済新聞の社説には勇気づけられました。秋田県の鷹巣町では、町の有志が集まって自発的に老人介護を始めたようです。山形県の長井市ではレインボープランという住民発案になるゴミのリサイクルが始められています。日本の各地で住民の力、すなわち「住民力」を養う努力が始まったようです。税金を減らせばよい、地方に権限をもっていけばよいというだけでは、実際の改革の実は伴いません。地方分権はその土地の住民や企業にたいへん負担のかかることであるとの覚悟と実行力が必要なのです。
第四番目は教育問題です。とりわけカリキュラムの自由化が大事です。コロラドスプリングスには戦前から存在するJA(Junior Achievement)という非営利団体があります。全米200万人におよぶ小・中・高の生徒に対して地域の現役やOBのビジネスマンなどが講師として無報酬で参加し教育支援を行っています。何を教えているかといえば、資本主義です、価格・利潤・企業会計・企業の社会責任といったことを教えます。高校レベルになると生徒に模擬的な企業を設立させ経営を実践させたりします。日本の高校生との間でもEメールでおたがいに経営の実践をやらせれば効果があると思います。米国の資本主義のしぶとさ、根深さといったものを痛感しています。また